《ガシャポン問答》
先だって冬の終わりに行ったロマンティック・チャレンジは、宮司にも大きな恩恵をもたらした。
新しい気づきが得られたことに加え、これまで雑に扱って来た方面への観察が、意識の進化を更に深めてくれた。
この進化に大変気を良くした宮司は味をしめた。
「不覚時代には見向きもせず死角になっていたものと相対する」試みを、映画作品という切り口に絞って、別方面から重ねてみたのである。
その死角とは、
残酷描写のある作品
恥ずかしながら、不覚時代にはどちらかと言えば善に傾き、淡白に傾き、平和に傾き、メルヘンに傾き、
いつシルバニアファミリーの新メンバーにならないかとスカウトが来ても支障ないノリで生活していた為、「残酷」にはとんと縁がなかった。
だが不覚社会で、「残酷」が非常に人気のあるテーマであることは遠巻きに見て知っていた。
王様と私。残酷と宮司。
一体どんな化学変化が?
と、早速、
「過去の苦しみで人格が歪んだ殺人鬼が、衝動に任せた残虐な手法で人を半ば無差別に殺していく映画」と、
「日本中がゾンビ化した人々で溢れ還り、感染してない人達が生き抜く為にゾンビをどんどん殺していく映画」
を連続で鑑賞し、だめ押しに
「大勢のヤクザが戦って冗談みたいに人が死んで行くスプラッター映画」
を追加してみた。
滅多に観る機会もないからと、ちょっとしたものではなく、一応「戦慄」とか「狂気」とか「問題作」とか「シャレにならない」とか「トラウマ級」とか呼び声のある作品を選んだ。
結果を申し上げると、恐さで震えあがったりも、不快さで吐き気をもよおしたりもしなかった。
ただ、軽くしょんぼりする位。
死とは何か真実を分かった上で、今さら「死んじゃうかもよ?」程度で恐がれるはずもなく、当然と言えばそうなのだが、この体験から申し上げられることがある。
当宮にお越しの皆様の中に億が一、残酷&恐怖ファンの方がおられたら、是非
不覚の間に思いきり恐がっておかれた方が良い。
楽しむなら今の内。
目が覚めると、恐怖は没シュートである。
自宅で鑑賞を終えて、回転する椅子の上で膝を抱えてグルグル回りながら、この何ともいえないしょんぼりの納まりどころを探ってみた。
何でしょんぼりしたか。それは、
あまりにも御神体が粗末に扱われていたから。
そして、映画の中での散々な“粗末に扱われ具合”を通して、「じゃあ、大切に扱うってどんな感じだろう」と思いを馳せて、その「大切な扱い」を、多くの御神体が受けていないことに気がついたからである。
残酷な映画に限ったことではないのだ。
勉強や仕事で目指す成果を遂げる為に青息吐息にさせて引きずり回し、
ストレス発散の暴飲暴食や見栄からのダイエットを強いて
忙しければ満足に寝かせず
むしゃくしゃすれば八つ当たりし、
ありとあらゆる痛みや苦しみに一緒に付き合わせ、
刺激が欲しければ、フィクションの中で刺したり殴ったり撃ったりして殺す。
何よりも、
それらを当然だと思っていること、
ろくに感謝もしていないことが、
あまりと言えばあまりな態度。
そこまでひどい扱いはしていないと仰られる方も、普段、御神体と対話はされておられるだろうか。
感謝をお伝えになり、無理をさせたら詫びておられるだろうか。
身内だからと「愚妻」扱いしていらっしゃらないだろうか。
変容の道には険しい崖もあり、妻に苦労をかけることも起きる。
だが、そこに感謝と敬意があれば、それも共に乗り越える歓びとして光り輝く。
大切なのは互いの存在を認め合うこと。
妻の側はずっと見つめ続けてくれている。
不覚社会の分割意識達は多くが各々の御神体について高をくくっている。
壊して駄目にしても、また次のに乗ればいいやと。
まるでガシャポンを気に入ったのが出るまで、捨てちゃあ延々出し続けるみたいに、いつか「これでよし!」と思える自分の肉体に出会えるまで、それまで取っ替え引っ替えすりゃいいやと。
輪廻の記憶が魂に刻まれており、それを元に「チェンジで!」が出来ると見越しているのだ。
はっきり申し上げて、クズの所行。
ガシャポン問答なぞ、問答無用で不要である。
御神体を伴侶であると気づけるか、道具として扱うに留まるかで、道は別れる。
意識だけで変容してここに在ることは出来ないし、この時代は、のるかそるか。
在るか去るか、ふたつにひとつなのだ。
映画を観終わってのしょんぼりは、いつしか静かな怒りに変わり、そして更に愛へと変わった。
うちのカミさん含め全ての御神体への愛と慈しみを以て、彼らの代弁者となろうと改めて誓わせて貰った。
死角を突くことは、やはり更なる進化に繫がる。
ロマンティックに引き続き、残酷からも再びそのことに気づかせて貰えたのである。
無縁の分野も訪ねてみよう。
(2017/4/10)