《カルナバル》
月曜記事で人気についての話をしたが、当宮への反応について、こちらで確認等していないことは既に申し上げている。
それについては変わらない。
神に「役立つと人気出るよ!」と言われるのは、
「目の前のお庭をじゃんじゃん掘ると、地球のどっかで温泉湧くよ!」
と言われるのと同じで、
「へぇ、そりゃ傑作だ」
の返答くらいしか出て来ない。
こんな調子で淡々と暮らしながら、世間の人気嗜好のヒートアップを眺めている。
目に見えない不安が日に日に増して、どうにかして目に見えるものを拠り所に安心をしたくなる時、人は偶像を求める。
変容の時代ともなると、戦争や世紀末etcこれまで経験して来た機会とは、感じる不安の大きさは比べ物にならない。
スポーツ、芸術、学問、どのジャンルでも何かしら“天才”めいた存在が現われると興奮し、拍手喝采で盛り上げる動きは、既に常軌を逸した勢いとなっている。
一つの才能の発揮を純粋に歓ぶと言うよりも、何かしらの才能に恵まれたと見える人々に対し、「閉塞した状況を打破する救世主」としての期待を寄せている。
奇妙な転嫁である。
才能は只の才能であり、「こんな天才が出るのだから世界はまだ大丈夫」と言う太鼓判ではない。
そうしたお茶を濁す動きで、旧時代の賞味期限を引き延ばすことは出来ない。
にも拘らず、目を瞑っての無茶な盛り上げはどんどん激しさを増している。
世間の変てこな人気礼賛を眺めていて、上から幾度か「カルナバル」と言われた。
カーニバル(謝肉祭)は世界各地で行われる祭で、カルナバルはそれをスペイン風に表したもの。
何でカルナバルと言われたのかは不明である。
花や菓子を外に撒いたり、仮面を被って羽目を外す振る舞いをしたり、謝肉祭では色んな行いをする。
色々の裾野が広がった結果、現代では「サンバカーニバル」等、単なる賑やかなイベントにまで○○カーニバルの名称が付けられる様になった。
なので、より原型に近い意味でと言うことでカルナバル、と振られたのかも知れない。
元々は断食前の宴であり、カルナバルの期間中、人々はエゴを暴れ回らせる「罪深き行い」を存分に楽しんだ。
楽しんで丸出しにした罪を全て、大きな人形に背負わせるかたちにして、祭の最終日にその人形を燃やす。
炎上で穢れを祓おうと言う動きで、火の禊である点はどんど焼きに似ていて、派手に騒いで身代わりを燃すところは違っている。
カルナバルに意識を向けていて、成る程と膝を打った。
誰かしら偶像として担ぎ上げて騒ぎ、用が済んだら燃やして片付けようとする動き。
天才とその人気に興奮する騒ぎは、カルナバルそのものだ。
不覚社会に登場する天才は、初めは神宿る如き力を見せる。
偏った思い入れなく中立に眺めていると、その力がある時不意に、目に見えて萎むのが分かる。
彼や彼女の奥から息吹を送っていたものが、すっとそれを止める。
この「何ものか」と交信をしたくて、不覚の人々はそれらしい者を見つけては次々に担ぎ上げるのだろう。
天意からの愛を捧げることなく、騒ぎの熱だけ得ようとする。
そんな虫の良い魂胆で、一体何と交信出来るのか。
何にあやかろうと言うのか。
この先も、担いじゃ燃し、担いじゃ燃しのカルナバルは出て来る。
進化変容を意志する皆様は、
熱狂や炎上では、何かが進んだり深まったりすることは一切無い
そして、
真の才は天意からの愛が満ちるならどこにでもどんな風にでも溢れる
と、お分かり頂くことが必要になる。
誰もが何かの天才。
そして何がどこから出て来るかは、エゴが常識で固めさえしなければ、自由に変わるのだ。
色めき立たぬと、澄み渡る。
(2019/1/17)