《むすんでひらいて》
世人に前世ファンは多いが、前世に何があったに関わらず、「世人の前世」全体での貸し借り(やったやられた)のスコアは、今現在どうなっているか。
プラマイゼロ
当然、全員プラマイゼロ。
何故なら我々は元々一つの存在であるから。
過去に結ばれた因果のどっかしらに意識を送りそこを「知った」とする。
知ることは開くことになる。開放感がそこに起きる。
自分を苦しめて来たもの、変容の足かせになっていそうなものが、何なのかを知ることが出来たという安心感が湧く。
開放を解放だと捉える者がある。だが、開くことと解くことは同義ではない。
開く時。残りを閉じていなくては、そこを開いたことにならない。
つまり「開閉の固定」であり、それはある種、拘束なのだ。
進化に向けた真なる動きは解放であり、全部チャラにして解くこと。
開放は解放ではない。
では開放とは何か。
お遊戯の一部。
閉鎖と開放がセットでお遊戯となる。
まだ幼い者達が、教えられた通りに動く“遊びの戯れ”。
物理次元に慣れる為の準備運動を兼ねていて、これはこれで必要だったが、ずっと繰り返すものではない。
思考と感情がクセになっているのは、この開閉を繰り返し続けて、習慣化した為だ。
結んで開いて
手を打って 結んで
また開いて 手を打って
その手を
きりがないことがお分かり頂けると思う。
開く為にまた結ぶ(閉じる)から。
本当の結び(無寿火・無寿日)には、解くことがセットになる。
完全にバラッバラになる個の消失を経てこそ、まっさらな結びが成されるのだ。
こちらもきりなどないが、繰り返しではなく永遠無限に繁栄し続ける。
個でなく全一として繁栄する。
消失を恐れるのは個の成果が無くなるからである。
そして恐れているのはエゴであって、人型生命体ではない。
同調しているだけで寄生者と宿主は別物であることをわきまえなければ、進化変容はあり得ない。
エゴの役割は個の細分化であり、その限界を知ることでもあった。
そこから統合に向かう準備は既に整えられており、エゴプログラムはかなり前にサポート期間を終了している。
だが延々延々、内側では飽きて気鬱を起こしているので言わば「怨々怨々」、不覚社会は未だ古い動きを繰り返している。
遊戯の終了を提示されて、目覚めに向かおうとしつつも、実は形だけの決意しかしていない者達がトライしてもがいているのが
勝ち抜け
何かやられた側として過去の恨みを晴らしたかたちで、
何かやった側として謝罪ポーズを取りつつ実は優位に立ったかたちで、
つまり最終的に勝ったかたちで、
ゲームをクリアして終わりたいと思っている。
何故なら負けはゲームオーバーでクリアじゃないから。
『YOU WIN!』と言われなきゃ、終わりたくないのだ。
辞書を引いて最初に出るクリアの意味は「透明」だというのに。
無色透明の領域に達すれば、勝つ自分だって居なくなるのだが、いつの間にか「邪魔者が消えてすっきりした世界を勝った自分が見ている」風に、クリア像がクリアでなくなってしまった。
何か倒したり、いい数字をあげたり、他より抜きん出るのが勝ちだと世人は思っている。
エゴゲームを本当に終える方法は「何か倒したり、いい数字をあげたり、他より抜きん出たりしたがる自我」を冷静に俯瞰で見ることである。
その時初めて、ゲーム機から手を離すことが出来る。
全母である虚空が変容に舵を切ったことで、不覚社会のエネルギーは水が引くように減り始めた。
足りない分、燃やせるものは何でも燃やせと、エネルギーの掻き集めで派手なお遊戯が乱発している。
その元気すらなくなるまでの悪あがきだが当神宮にご参拝下さる本気の皆様は、他の端末のお遊戯に付き合う必要は微塵もないことを、ご理解頂きたい。
彼らに情けをかける必要はないし大体皆様は、
お遊戯に
興じるような
お年
ではない。
既に結魂適齢期。
当宮の記事を読むことが出来るのは、ある程度の魂年齢に達せられていることを意味する。
ここでの年齢とは成熟の度合いと言うこと。
そして、記事を読み続けることが出来るのは更にその成熟が深まった方々であることを意味する。
お気づきの方も居られるかも知れないが、内側が未成熟な端末には、耳と胸が痛くて読み続けられないようになっている。
そうして篩(ふるい)にかけ、洗い出し、磨き出しして、変容に向かう端末の真贋を見極めようとするのが、上の意志だからである。
宮司は上の意向を汲み、川に入って砂と金とを篩で分ける人足のように黙々と記事を書いている。
地味な作業で、「これは金であって欲しい!」とか、「金いっぱい入ってて欲しい!」という意図なく、淡々と篩が揺らされる。
参照:http://blog.goo.ne.jp/oraccha20052012/e/6b10ec6542a415cdfa5e63bd12d39c6d
自ら額に汗して体験を積み、それを元に記事を書くことが求められる。
それが歪みのない篩を作ることになる。
砕けて篩から出た砂は川を流れ全一に還って行く。
それも只静かに、「お疲れさま」と見送ることが出来る。
そこにはお遊戯では成し得ない、深い大人の喜びがあるのだ。
前世を見る時、全世は見えない。
(2016/9/26)