《みるみる内に》
発生した事態に動揺したり、漠然とした不安に苛まれたりする時、その者は変化の全体を観ていない。
観ていない、というか観えていない。
行われているのは、観るとは別の「みる」達である。
意識が映すものをテレビ画面風に表すと、基本の舞台が「眼前の光景」。
そこに「過去の出来事再現V」や「想像上の出来事イメージV」、他の端末からの「中継」等が差し挟まれる。
「過去の栄光特集」や「未来の危険特集」、はたまた「理想のユートピア特集」で盛り上がり、そればっか編集して意識上に放映してると、当然「今」は疎かになり、新鮮味が失せる。
損なわれたフレッシュさを、ショック等を振りかけ、“濃いめの味付け”にして誤摩化しても、受け取れる滋養(=天意)については比較にならない。
多くの人々が観ずに何をしているかと言えば、何となく「見る」か、部分に意識を集中して「視る」をしている。
そしてそれ以上に「診る」をしている。
不覚社会では、診る職業に就いてない人々でも、絶えず「何かまずいことは無いか」を念頭に置いて人や物、出来事等の状態をチェックし調べ上げている。
そして、対象に思い入れがあると「看る」を始める。
現状を保つか、より良い状態にしなければならないと思い定めて「看る」を続ける。
ところが「診る」をしだすと「診られるもの」に、又「看る」をしだすと「看られるもの」に、対象はみるみる内に変わって行く。
Aの内側から「そう・みる」力が加わって、Bの外側が変化するのだ。
但し、同じ段階にある存在同士に限って。
片方が何の思惑もなく只「観る」ことが出来ていると、「診る看るの術」は作動しない。
「診る」も「看る」も不覚の分割意識達が編み出した、目が覚めていない状態ならではのイベント。
これはこれで当初は楽しめたし、重要な学びになった時代もある。
だが、変容の時代にはご承知の様に無用の長物で、せいぜい「焼け石に多めの水」程度の存在。
蒸気は沢山出るが進化はしない。
全体が観える、ってピンと来ないなぁ。
知識としては知っているけど、感覚的にはまだちょっとリアルじゃない。
そんな方に向け、「観える感覚」を「状態」に変換出来ないか探ってみた。
気が向かれた方は、これから申し上げる光景をご想像頂きたい。
地球がある。
それを離れた場所から眺めている。
実際は月や水星と言った中途半端な地点ではないが、ここは便宜上「月」とでもしておく。
あなたは月に座って、地球を観ている。
つまり、只今あなたはそれ程大きい。
丁度バランスボールに座る感じだが、月はバランスボールより大分固い。
時折、尻の痺れを和らげるのに座り直すことが必要かも知れない。
とにかくそこに座っている。
眺めている地球に大きな雲が発生した。
球体を顔とすると、髭程度の雲だが、大陸以外の島は余裕で隠れる。
雲のあちこちで雷が光る。
雲は渦を巻き、速度とボリュームを増して、移動している。
あなたはそれを観ている。
雲が丸ごと地球を覆ったとしても、「ふかふかになった」とは感じるが、「キャー!」とはならない。
全貌が感じられていると、単なる興味から「で、ここからどうなるの?」となる。
これが、観えている状態。
全体が観える感覚が分かって来ると、内側が静かになる。
不覚社会のトンチキなニュースを見かけて「おいおい阿呆か」となったりしても、同時進行で
「なるほど只今この流れにつき、その「阿呆か」な事象が発生中か」
と、観察する様になる。
「観る」は対象に、圧力を加えない。
だから、移ろうモノコトの何がどう映ろうとも、常にそこから学び、それを昇華し続けることが出来るのだ。
そして昇華する歓びの連続が、そのまま進化の道となる。
観る観る弥栄の花が咲く。
(2018/3/26)