《みくじと遊ぼう》
神籤とは神からのメールである。
神の籤と書くが、寺でも珍しくなく置いてある。
なので実質、神仏からのメールになっている。
神社でも寺院でも参拝して真摯に意宣った先に、不意に聴こえる声として、又はビジョンとして、神仏からの返しが訪れることがある。
感覚が開かれている状態であると、参道の途中や、木々の間に、見上げる空や吹く風に、伝わる何かを感じ取ることが出来る。
そうしたことが起きにくい場合にも、神仏からのメッセージを受け取ることは出来る。
それが神籤なのだ。
涼しさも増した行楽シーズン、ちょっとした観光やハイキング等も兼ねて、神籤を引きに神や仏を訪ねてみられると、この秋は殊に面白いことが起こるだろう。
神仏空間は元々面白いものだが、この所の地表大掃除が功を奏して、いよいよ準備万端で腕まくりしているらしい。
一応申し上げておくと、神籤をお引きになる際には、「全て虚空にお任せします」や「全母の望みのままに」と付けた上で、今必要なことを教えてとオーダーされること。
受け入れと意志と、両方あっての中庸となる。
上への呼びかけと同じく、神社や寺院の神仏への呼びかけも、ナナメってるとちゃんと届かない。
個人の願望を、念力でもぎ取った内容になったりする。
尤も、この念力もぎは日に日に出来にくくなっている。
もうそんな悪ふざけにはエネルギーが回らないのだ。
神に対する畏れが過剰になるあまり恐れと化しているか、自らと信じた“私”に対し「こんな者…」と卑下する思いがあると、呼びかけは途中で歪んで失速し、割り込んで来た別ものからの返しになったりする。
引く時、意識に「こんなの引きたい」「これはちょっと嫌かも」が残っていたら、それを片付けてから引かれること。
腹を決めたらあれこれ思わず「何の気なし」が、一番すっきりと向こうに届く。
どうしても
「力入っちゃうよ。だって相手、神とか仏だもん」
と言う方には、自販機神籤がお勧め出来る。
どの神社や寺にもあると言う訳ではないが、見つけたらお試しになられてみては如何だろうか。
硬貨を入れたが早いかピンポン!の軽快な音と共に神仏からの返しが飛び出して来る。
もう、即、念など込める間も与えず、即、出て来る。
「ええい、ままよ!」の覚悟と10~100円程ご用意下さい。
自販機神籤は割合都心に多い気がする。
寺院は比較的スタッフ常駐の所が多いが、あまり人の訪れない地域の小さな神社だと、無人なことも良くある。
ちょっと風雨にさらされた神籤が入った木の箱に「100円は賽銭箱に」の張り紙とか、野菜の販売所みたいになっている所もあって、面白い。
神籤がパリッとしてなくても、それはそれで巡り合わせ。
宮司は、一回誰かが引いて戻したものなのか、引いた神籤が開封済みでビックリしたことがある。
それはそれで面白かった。
お出かけして神籤と遊ぶ試みがより一層楽しくなるアイテムを、今月のふろくとして下にお載せしておく。
順に表紙、中身用の紙、裏表紙となる。
中身の左端に神籤を貼って頂き、それから各所にご記入を頂く。
本体は取っておきたいと言う方は、コピーを貼ると、神籤そのものにも遠慮なく丸を付けたり線を引いたり出来ると思う。
宮司は本体に書き込んでいるが、怒られたことはない。
豪快にそのものを貼る場合、左側(裏っ返しての右側)のキワッ際に、細く糊をつけて貼られると、裏側も引っくり返して見ることが出来る。
裏に書かれた詞が、何より核心を突いていることもある。
英語版のこともありますが。それはそれで。
横にあるピンクの長丸は、この神籤を観察して気づいたことを自由にお書き込みになられる欄。
右側上方の青いポヤポヤは、神仏からのメッセージが聴こえたり観えたりした内容。
真ん中の無地のピンクはそのメッセージについて感じたことを書く欄である。
そして下のピンク地に結晶の様な模様がついた欄には、その感じたことを基にした愛の結晶化、つまり実行を決めたことをお書き頂くようになっている。
『みくじのたより』とは、まんま神籤による神仏からのお便りであるし、神籤を通じて神仏から頼りにされる記録でもある。
聞き違いではない。
頼りにされている。
何故なら、彼らはどれだけ全体に貢献したくとも、それぞれの持ち場を離れては出来ない。
物理次元に直接「ことを起こす」存在ではない。
依存と頼りは似ているようで全く違う。
依存はお構いなしに縋り付く寄生虫のような動きだが、頼りは本来、自らを立した存在が、その上で「頼もしい」と感じた相手にしか出来ないことなのだ。
彼らにしか出来ぬことがあるのと同じく、
絶対に人なる神にしか出来ぬことがある。
なので、気後れや気負いなしに、全体貢献の意志と共に、訪ねて頂ければと思う。
引き受けて、祝う秋。
(2017/9/25)