《ちいさな人たち》
先日、電車に乗り込んで吊り革を掴んだ所で、横から奇妙な台詞が聞こえた。
「何で元気がないの?」
見ると、おかあさんらしき方が、目の前で、壁に背中をはりつけてしゃがんで居るお子さんらしき方を見下ろしている。
お子さんは男性で、ちいさな端末の平均身長がどんなものなのかがさっぱり掴めないが、大体4、5歳位かと感じた。
「…そんなこと言われても…なんで元気じゃなきゃいけないの」
「子供は元気なものなの」
えっ?
「お嬢さんそりゃ無茶だ」と驚いて見ていると、こんな返答が聞こえた。
「う〜ん…でも、今日はそんな気分じゃないんだよ」
素晴らしい。
反発せずに「このお嬢さんにも分かる様に説明しようとする努力」を、しゃがんでいる4、5歳の紳士から感じた。
「大人は分かってくれない」「だから大人は云々…」と言う退屈なループにはまり込む“子供なりのお約束”に毒される前は、こんなに洗練された返答をすることが出来るのだ。
気分は瞬間により様々。
全一の流れに抵抗しなければ、子供だろうが大人だろうが元気が基本なのだが不覚のままではそうは行かない。
それでも「時には元気がなくてもいいじゃない」と広い懐と深い意識で居られると、放っとけば勝手に元気が湧いて来る。
元気があろうがなかろうが、兎に角「たまたまこの今」はそうなのだと、大きく観ることが大切になる。
感心していたが、お嬢さんの返答はこうだった。
「朝ご飯、おばあちゃん家でちゃんと食べなかったの?」
それから様々に質問の角度を変えて、結局導き出した答えが
「そうか、いつもより電車に乗る時間が6分長かったから、疲れちゃったんだね」
お嬢さんはそこでようやく安心した顔になった。
紳士は気力を削がれたらしく、完全に座り込んでいた。
安心したのは「受け入れられる答え」を得たからだが、「質問はしても、受け取れる答えは人間あるあるの範囲内」とあらかじめ決まっていると、真の会話は出来ない。
この紳士は成長して独り立ちするまでに、こうした変てこな尋問を数えきれない程くぐり抜けなければならないのだろうか。
お嬢さんに手を引かれ降りて行く後ろ姿を「ナイスガッツ。どうぞ良い旅を」と見送った。
勿論、親子がいつもこの様におおきな分からんちんとちいさな知的生命体の組み合わせになるはずもなく、逆のパターンもある。
おおきい方もちいさい方も知的な生命体の場合もある。
そして、総員おおきい分からんちんとちいさい分からんちんだけのこともある。
その場合は感情と思考が大分忙しいことになる。
毎日が場外乱闘。
本来のセンスを一回不覚常識で埋め立て、その不覚を破いて脱皮するのが変容の初期段階。
それを破かずに隠れ蓑にして温々と過ごすと、体だけ大きくなっても、いずれ重さに耐えかねて蓑と心中することになる。
「そんなのご免だ、本当に知りたかったことを知って、したかったことを成すのだ、全体一つとして」
そう決意して、意識や行動を変化させることは「何処の誰でも」可能。
だが、ハードルの高い低いはある。
ちいさな人たちのハードルは結構高い。
生活の主権を保護者端末に握られているからである。
そして知識の上では、空について彼らは無知。
感覚で何となく捉えていても「わー、やっぱりこれがこれなのだ」と完全に腑に落とすまで行っていない。
2017周りのちいさな人たちの中には、「目覚めた親のサポートで早めに起きて、全体に貢献する」気だったのが、思いがけない渋滞に戸惑う者も居る様に感じる。
たまに目にするニュースでは、肉体の存続が難しい環境すら増えているらしく、遠巻きに見ていても、所によっては「中世か」と言う位、どんどんきつくなっているのが分かる。
随分なビッグチャレンジに挑んでいる。
親は親の、教師は教師の、代え難い役割があるが、「その他大勢の大人」にも、出来ることはある。
関係ない者と省いたり、生理的に嫌だと毛嫌いしたり、印象操作で好かれようと画策したりせずに、一つのいのちといのちとして、彼らに接すること。
かれらの見た目の大きさが、彼らの大きさだと見誤らないこと。
フラットな天意の観点で彼らを見つめることが重要になる。
たったこれだけで、本当にこれだけでも、ちいさな人たちの世界の広がり方は大きく違って来る。
「全体薄暗くて皆が彷徨っている世界」か「薄暗い中でも、えも言われぬ確かなものを、何故だか感じることが時折出来る世界」か。
比べれば、違いは明らかとなる。
まなざしで全母の天意を、ちいさな人たちに届けることは可能だ。
相手がちいさくなくたって勿論可能だが、常識ブロックの抵抗が少ないのでちいさな人たちには割と届き易い。
宮司は、そうそう彼らに接する機会がないのだが、あった時には大いに楽しんでいる。
実際彼らの中には、世に言う大人より断然センスの良い方がまま居られるし、彼らの殆どが世間の大人より面白い。
ちなみに、「こどもイコール神」とは見ていないし、「ちいさいから可愛い」と言う風にも見ていない。
可愛いどうかで見れば、成人だって可愛い。
そして人は皆、神を宿している。
ちいさな人たちは、とにかく面白打率が高い。
その理由は可愛いからでも、ピュアだからでも、無邪気だからでもなく、彼らの多くが
予定調和で
生きていない
からであると感じる。
そしてそれは未知を愛する端末にとって、実に自然であり、嬉しいことなのだ。
面白いよね!
(2017/8/14)