《それそのものを》

 

ある日の昼頃、ちょくちょく行くデパートのトイレに今年初めて立ち寄った。

 

全身が映る大きな鏡の並ぶ入り口を通過すると、手を洗う場所と温風で乾かす機械とが交互に置かれた台を中央に据えて、周囲の壁にトイレのドアが並ぶ空間に着く。

 

一番手前のドアが開いているのが視界に入り、中にある便座を目にして自然と浮かんだ

わー、トイレだ〜

 

という歓びに意識が「ん?」と立ち止まった。

 

と、一瞬で畳み掛けるように気づきが到来し、即座に

 

「あぁ〜!!はいはい、こういうこと!」

 

となった。

 

これだけだと何が何だかさっぱり分からないがつまり、

 

「こういう歓びを感じられる点が、不覚状態との完全なる違い!」

 

と了解したのだ。

 

ぐるりと並んだ10数ケ所ある、大小のトイレスペース。
ドアは開いてる閉まってるが半々程。

 

トイレ空いてた〜

 

という嬉しさではない。

 

ちなみにその時に殊更、便意や尿意をもよおしていたわけでもない。
通りかかったし、ちょっと行っとくか〜位の“ついでトイレ”だったのだ。

 

なので

トイレ間に合った〜

 

という嬉しさでもない。

 

確かに広く明るく、頻繁に掃除され、植物もふんだんに飾られている感じのいいトイレではある。

だが、それにしたって「自分のものでもない」「何か手に入るわけでもない」「晴れ舞台でもない」場所に、

 

その場所がその場所であることのみの歓び

 

を感じることって、あるだろうか。

 

目が覚めると、それがあるのだ。

だからつくづくと面白い。

 

トイレがトイレであることの歓び。

 

これはトイレそのものが感じていることでもある。
だからそれが伝わって来た。

 

トイレ程、日々必ず役に立っているのに、捧げられる感謝が希薄な空間もないのではと感じる。
だが、それを全く気にかけることなく、トイレ自体がトイレであることを歓んでいる姿を目にした時、言い難い感動があった。

 

生産性もなく、名誉もなく、只ひたすら「それにしか出来ぬこと」を全うする。


もしトイレがボイコットを起こし、浴室や物置で代用するようになったら、瞬く間に大混乱となる。

 

だがそれは起こらない。
トイレを始めあらゆる場所は、あらゆる場所であることを既に、言ってしまえば初めから歓んでいるから。

 

乗って走り出せそうな程、頼もしい。

 

意識であることに加えて、全一に溶けてからは人の姿をした「只の場」でもあるので、それが良く分かる。

宮司という“これ”も“これ”という場であることが歓ばしい

 

不覚者の抱くあらゆる不満「条件付け」を経て発生する。
何故なら不覚者の満足が皆、「条件付け」によるものだから。

 

条件を満たしての満足と言う愛し子の対に、祝えない鬼子として不満が生まれる。

 

条件付けのない世界に暮らしてみると、「ただそれそのものである」ことに根ざした、驚く程きめ細かな歓び、真の満足がそこかしこに溢れていると気づかされる。

 

人型と言うのは出来ることが多い分、一番揺らぎやすくもある様で、歓んでいながら馴染み過ぎてそのことを忘れたりする。
いつもある歓びを再確認しピリッとする良い機会を与えて貰った。

 

年始早々、ちょいと立ち寄ったトイレに対し「かく有りたい」と感銘を受けるとは、中々に結構な2017である。

善行は轍跡(てっせき)なし。神行は(ふち)汚れなし。

(2017/1/12)