《それが祈りと》


「あ!そういや、あれは前からないぞ」

 

覚後の知らせを書いてから、ふとした拍子にそう気がついた。

 


記事に書いた幾つもの変化。
その中で「何かを誰かのせいにすることがなくなる」と書いたが、それに関しては不覚の時からだった。

 

起こることについて、原因がパッと見は他にあったとしても、誰かや何かのせいだけでそうなったと言う感覚がなかったのだ。


原因や責任を求める前に


「そうは言っても、首に縄つけられてそうなった訳でなし。結局、自分も一枚噛んでるでしょ」

 


と、自らと信じた存在についても、どこか淡々と観ていた。
覚めるのが早かったのは、その為だと感じる。


自他が溶けた現在となっては世間で起きている首に縄がつく様なことすら、大いなる全体の中で発生する変な渦に見えている。


弥栄でない変な起こりではあるが、「どっかのカーブだけが悪い訳ではなく、周囲で曲げに曲げて作った結果、グルグルしている渦なのだ。


ましてエゴの絡まない天の采配には、何の咎もない。

 


この度の雨だって人を困らせようと降った訳ではないし、大きな岩だって苦しめようとして山から落ちて来た訳ではない。


不覚社会のヤンチャが起こす歪みが、延々止まない故に起きた「より大きな通知音」であり、お知らせはお叱りとは違う。

 
世の不覚者は何か起きた時に、様々な形で自己を守ろうと、どれ程の遠因でも他に理由を求める


その遠い道行きでエネルギーの大半を使い果たし、燃料枯渇注意散漫を招き、結果再び「歓迎できない事態」を実現すると言うのに。


延々と繰り返す。

 


重々しさを出して真剣な振りをするが、重視とは重いノリや、もっと言えば深刻で暗いノリで視ることではない。


重んじるとは本来、通り一辺ではなく、様々な角度から重ね重ね丁寧にすることだ。


不覚である為に、視る角度に制限が残っているとしても、出来るだけ柔軟に注視を重ね、それらを統合観察することが大切。


すると、不要に空気を重々しくすることがなくなる。

 

 

宮司は、普段から軽いノリで過ごしている。

 

場の空気を重たくは出来ず、不覚怖がる様なキツイ事象も、淡々と観ている。


何しろ、


女性の白い喉に牙をたてる吸血鬼

 


と、


細い棒を使って蜜を食べるチンパンジー

 


とが、同じ感じに映る。


不覚の言ってる格好良いとか劇的とかが、本当に日に日にピンと来なくなっている。


浮ついてるのと違って、中心は定まっているので軽い分だけさくさくと動きが進む

 

実行実行、また実行

 


不覚の嘆きと混乱が深まる中、宮司を名乗る“これ”の中で


もっと集中し、

もっと全体に

尽くして働く


意志が、日に日に強まっている。


何故なら、その集中こそが全体の流れ健やかにする貢献となるから。

 

 

変わりゆく世界に行動の形で、祈りを捧げている。


集中による貢献の重要さは、是非皆様もそれぞれに内側で確かめ外に実践放出なさって頂ければと思う。


もう大分前に、天候がこれまでの様な、人の都合に左右される動き方しないことはお伝えしているし、


不覚社会にどんどん大きな音で、新しい時代が来たお知らせが届くこともお伝えしているし、

 


目を覚ました者が身近に居たとしても、当人の自由意志がなければ一切何ともどうともならないこともお伝えしている。


当宮にお越しの皆様は、それら記事の内容を踏まえて、世間で起こる何やかやにも「やっぱりそうか」となるだけで、別に今更混乱したりなさっては居ないだろう。


その静けさ揺らがなさを基に、存分に周囲に捧げるお働きを。


それを祈りと呼ばずして、祈りと呼べるものなどない。

 

愛あってこそ、祈り。

 

(2018/716)