《すべて命》
日本の神々の中に、「○○ノ命」と呼ばれる存在達が居る。
そうした神社に奉られる神に限らず、すべての命は本来命なのだと思いながら、街を歩いていた時のこと。
ペットショップの前を通りかかり、ガラスの向こうに眠っている子犬が見えた。
「ヒルネノイヌノミコト」
咄嗟にそう浮かび、結構簡単に何のミコトか定まるものだと感心した。
昼限定のミコトであり、寝てる状態から起きた時点でもこのミコトではなくなる。
すぐ別の「アソブイヌノミコト」とかになる。
近くの交差点で、目の前の信号が青に変わるまでぼーっと立っていると、4、50代くらいの男性ふたりが通り過ぎた。
「…それは、水着OKなの。で、Cランクだとその場で生着替え…」
途切れながらも風に乗ってそこまでは聞こえてきた。
おそらく何か、エロい話をなさっている。
意識の中で「オナゴノランクツケノミコト」の名を贈り、遠ざかる後ろ姿を見送った。
青になり歩き出してから気がついたが、実際オナゴのランクをつけているミコトは、店やら経営している別のミコトであるだろうし、そうなると「オナゴノランクセツメイノミコト」の方が合っているかも知れない。
そう言えば、新宿二丁目という場所柄、オナゴなのかオノコなのかさえ良く分からない。
だが「オナゴノランク」だろうが「オノコノランク」だろうが、「ツケ」ていようが「セツメイ」してようが、全く変わらないのは
それがミコト=いのちであると言うこと。
いのちであることは、ヒルネノイヌノミコトと少しも変わらない。
不覚者は対象の姿形や行動を以て、その聖俗や軽重を推し量ろうとするが、「只、いのちであること」の輝かしさはあまり見ようとしない。
いのちがいのちであることは、退屈などでは全くない。
いのちがいのちであると、本当に心底から分かると、まずビックリする。
そこから様々なことについて新鮮な「凄いぜ!」と言う驚きが日々起きる。
道を歩いているだけで
「踏み出すと踏めるし、進めるぞ!わ~、凄いな!」
と、しみじみ驚いたりする。
全て切れ目のない、いのちの運びと実感していると、そうした驚きも自然に起きる。
命には、いのち・ミコト以外に「メイ」と言う読みもある。
「命ずる」のメイ。
この命ずる、の中身は実のところ一種類しかない。
栄えよ
これのみである。
世間のあっちこっちで放たれている命令は、「指示」。
指示者の善かれに沿って働けと、指示者を支持せよと言う指し示しなのだ。
部分の得にしかならない時点で、そこに命の栄えなどない。
真の命は、発する者の命をかけてでないと行えない。
分割意識が、全存在をかけて栄えよと命じ、それに相応しい行いをする時、初めて命は成される。
ミコトには尊という字も当てられる。
優れているとかいないとか一切の条件なく、只、そうあるだけで命は尊い。
じゃんじゃん栄えよう。
(2018/1/8)