《かける理由》
キリストは全霊で、その身も懸けて神に問うた。
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」
(我が神我が神、なぜ我を見捨てたもうたか)
術ではない。
テクマクマヤコンやエコエコアザラクだったら、まるで違う結果になる。
不覚を抜けてしばらくの間、ただ単に全一にあっただけだったので、
「全て何も問題はないし、動かないならそれもまた全一の現れで別段このままでもいいし、全部愛の運びだものね…」
と、全一の入り口にあるスペース通称「天袋」に身をゆだねてゴロゴロしていた。
正直に言う。
2014年いっぱい
薄目だった。
その時、度々言われたのが
義を見てせざるは
勇なきなり
当初は義を義理の義だと勘違いしていたので「誰にも義理なんかねえよ」と一蹴していた。
誰かに引っ張り出してもらったわけじゃない。
一人で不覚を出たし出られる。
むしろ出るときは皆一人だ。
きついがそれが変容の仕組みだ。
助けが必要な意味が分からない。
だが、再三言われるので
上にもページをさらしてやろうと怒りにまかせて辞書を引き、それが本義の義であると知って、キューッと身が縮んだ。
本義=正しきこと
世間の常識ではなく全一に則したことが、『正しきこと』だ。
正しいと分かっていることをしないのは勇なき有様ですよ、と言われていたのだった。
お恥ずかしい限り。
勿論全ての運びにプロブレムなどない。
が。
プロブレムがあるから動く、という発想がもう不自然なことに、今は気がついている。
そして今の今、承知していることがある。
魂の乾きについて、
宮司という”これ”は、
知っている。
その乾きが、どれ程身を焦がすものか。
どれ程言いようのない切なさに満ちたものか。
どれ程深い苦しみが渦巻くものか。
知っているのだ。
おそらく誰よりも。
渾身の問いかけで
全一の水を呼ぶ瞬間
乾きは極まる。
全一に飲み込まれ、一体となった後も知っていることに変わりはない。
体験によって、本当に知ることが出来る。この認識は消えない。
知っている。
それが理由だ。
貸しとか借りとか、関係ない。
魂の乾きが激しさを増す時代の中、
西に東にかける理由も
いのちをかける理由も
それだけで十分なのだ。
いのちは毎瞬かけてるが。
ちょいとお出かけも。
(2016/8/18)