《虹を抱くなら》
平素、二日にいっぺん何らかの締切が来る暮らしをしているが、それに加え年末の諸々と、更に『ハリー・ポッター』マラソンも続いている。
そんな師走の日々に、又もや上が全然違う雰囲気のものを鳴らして来た。
ハリー・ポッターの禁じられた森を出たり入ったりしていたら、何回目かに開けた拍子に、チータの迷宮に入り込んだ。
「…何でチータ?と言うか、チータって何だ。チーター?チキチータ?」
と一瞬、訳の分からないことに。
何せ師走であり、他の読み解きも色々走っている。
交通整理も、一仕事である。
調べてみたら、チータとは動物のチーターでも、スペイン語で「小さな可愛い女の子」を意味するチキチータでもなく、小柄な水前寺清子(本名:民子)氏を、「ちいさなたみちゃん」と呼んだものが略されて出来たそうだ。
チキチータが意外やかなり近い。しかしそんな風変わりな由来じゃ分からないはずだと納得し、この不思議な存在を改めて眺めた。
男っぽくしようとしている訳ではないのに、女っぽくもない。
性別を超えたあっさりとした感じがあり、明るく元気な歌を高らかに放っている。
天使に近い存在感。
汗やベソをかく苦労とかも歌うが、暗くない。
人間でありながら、何をどうしたらこんな風になるのか。
天使仕事の代理者だったのかも知れないなと、気がついた。
天使は天の発した仕事をそのまま行う。
なので、「天使仕事はこんな感じ!」とカラーやコンセプトが決まってはいない。
天が「そう、せい」と言えば何でも中立平等に行う。
だから天の使いなのだし、死の天使とかも居る訳である。
時代ごとの必要に応じて、彼らは実に様々なことをする。
じっくりとこの曲を聴くと、「不覚の人が元気づけて欲しい時に求めるもの」が山盛りになっていることが分かる。
“あなたのつけた足あとにゃ
きれいな花が咲くでしょう”
今の体験が、後に美しき成果となって現れることを示している。
前人未到でお目にかけた、花々で出来た足跡に似ている様でいて全く違う。
前人未到は、まだ足を踏み出したことのない未知のものに向かう決意、そしてどの瞬間でも虚空から光の花が咲いているその歓びを示した。
『三百六十五歩のマーチ』の足あとにきれいな花が咲くは、「頑張った成果として何かが出来上がる」様子。
そこでは体験そのものは既に過去、成果の礎となっている。
そしてやはり歌詞の一部である、
“あしたのあしたは またあした”
こちらははるかに続く道のりとしての、未来のことを歌う。
過去と未来を歌い、間の今は、行進あるのみ。
腕を振って、足を上げて
“休まないで歩け”
楽しそうだが、今が今であることの歓びを、自覚して味わっている訳ではない。
全て、今なのに。
歌詞の「夢みよう」「信じよう」の部分で再確認し、頷いた。
人類は、夢見ることと、信じることが大好きである。
旧スタイルポジティブの決定版とも言える『三百六十五歩のマーチ』。
スーダラ節の様に、不覚体験中の人類に寄り添うサポートが必要な時代もあったのだ。
全一から善や陽の面を抽出したメッセージを歌に乗せ、不覚時代の終わりに舞い降りたベリーショートの天使に、ありがたく感謝を捧げた。
旧式であっても、良くもここまでなさったと感じる様な、秀逸な表現がある。
“あなたはいつも新しい
希望の虹をだいている”
毎瞬毎瞬、虹の色にも通じる、七つに分かれて層状になっている御神体が、それぞれの真価を発揮する可能性(=希望)。
不覚であると、その希望は腕の中に抱かれている。
しかし、可能性のままにするのではなく、真価とは発揮するもの。
虹を抱くなら、
虹にはなれない。
そのことに気づく時代が来ているのだ。
行進から、帰還へ。
(2019/12/12)