《花咲かじいさん》
“枯れ木に花を咲かせましょう”
このフレーズは有名だが、そもそもあれって全体どんな話だったっけか。
ある時ふとそんなことが意識に上り、調べてみて「成る程なぁ〜」と膝を打った。
不覚社会に向けて分かり易く、「どう転んでも栄える流れ」と、「どう転んでも廃れる流れ」が2つ並んでとても上手く描かれている。
正直者で心優しい老夫婦が、子犬を拾って育てるところから話は始まる。
夫婦から我が子の様に大切に育てられた犬が、ある日、畑の土を掘りながら「ここ掘れワンワン」と鳴く。
言われた通りに正直じいさんが一緒に掘ってみると、そこから大判小判がザックザク。
それを見た隣の欲深い夫婦が、犬を無理矢理借り出して、虐待しながら畑を探させたら出て来たのはガラクタばかり。
腹を立てた隣の夫婦は犬を殺して、飼い主夫婦に悪態をつく。
飼い主夫婦は犬の亡骸を引き取って庭に墓を作り、丁重に葬って、墓が雨風にさらされない様にと側に木まで植えた。
植えた木はぐんぐんと大木に成長。
ある晩、正直じいさんの夢の中に死んだ犬が現れて、その木で臼を作る様にと教える。
言われた通り作った臼で餅をついてみると、財宝が臼から溢れ出した。
又もやそれを見つけた隣の夫婦が臼を借り出して自分らもついてみると、財宝の代わりに汚物が溢れ出る。
カッとなった隣の夫婦は臼を破壊。割った上に薪にして、燃やしてしまう。
帰って来た灰を大事に供養しようとする飼い主夫婦。
そこに再び犬が夢を通じて現われ、桜の枯れ木に灰を撒いて欲しいと言う。
言われた通り枯れた桜にその灰を撒いてみると、何と枯れ木に花が咲いた。
楽しくなった正直じいさんが冒頭の「枯れ木に花を咲かせましょう」を言いながら、灰をじゃんじゃん撒いていた所、通りかかった大名がそれを見て感動し、褒美を与えた。
これまた隣の夫婦もマネをするが、桜は咲かず灰が大名の目に入り、無礼を叱られ罰を受ける。
結構長い。
臼のくだりは初見かと思うくらい新鮮だった。
こうしてみると正直な夫婦の元を訪れた歓び達は
犬
臼
灰
と、結構な様変わりを遂げている。
動物、器物、粒粒である。でもどれもこれも、正直夫婦に繁栄をもたらす。
この昔話は室町時代に生まれ、「枯れ木に花を…」は千手観音信仰の流れを汲む台詞らしい。
心正しく善行積んでればお救い来るわよ、という教えは、技術や法が個人を守る様になる前の時代には、本当に大きな拠り所だったろう。
だが、繁栄する流れに乗るポイントはそこにはない。
大切なのはお話の中に再三出て来る、ある「姿勢」。
それは、
打算なく
言われた通りに
不覚社会では「○○してね」に「そうしたら△△になるから」をチラつかせて、他の端末を動かそうとする。
だが犬は「ここ掘ったら小判出るワン」などと匂わせてはいないし「臼で餅ついたら財宝出るワン」とも「灰撒きゃ桜咲くワン」とも言っていない。
何の飾り立ても無いアクションを、言われた通りにする素直さがあれば、繁栄は勝手についてくる。
これは猫の話をちゃんと聴いた粉屋の三男も教えてくれた真理である。
そして犬バージョンではもう1つ、そこに重要な真理が加わる。
同じ犬。
同じ臼。
同じ灰。
誰かがすり替えた訳ではない。
同じ段取りで事を行ったとしても、誰がどんな姿勢でそれを行ったかによって
まるで結果が変わって来る。
と、言うこと。
隣の夫婦は、繁栄の流れを自らの内に起こしていない。
当事者性がなく、盗み見て横槍を入れる動きしかしていない。
その結果に得たものはガラクタと汚物と叱責。
「誰かのサクセスを確認し、それを利用して進めばそつなく成果が手に入る」など、全く以て保証されていないことが分かる。
両夫婦の「内なるもの」が「外に出た」結果と見ても、この話は奥深い。
何たって、「裏の畑でポチが鳴く」である。
裏にあるものが宝か屑か、それは出し方を真似ただけで変更できるものではない。
そして財宝など表の繁栄を超えた、真の繁栄プロセスをも、この物語は示している。
庭を駆け回ってワンワン言う動くモノでなくなって、
固まって存在して何かの役に立つモノでもなくなって、
風に舞う無数の粒粒になって、
そうして初めて次の生である桜の開花に繫がる。
この変化はそのまま死と復活再生のプロセスを描いているのだ。
と言っても、そんじょそこらの灰では桜は咲かない。
行動に真心を込め、理不尽に思える出来事すらも全て受け入れた先に発生した「完全燃焼の粒粒」が、満開の桜を生む力となる。
その流れを観察できるのは人型生命体だけ。
命の循環のプロセスを、進化発展し合いながら観察する歓びに勝るものなどありはしないし、それこそが本来求める歓びである。
正直じいさんの歓喜の宣言は、全ての人型生命体に通じる歓喜でもあるのだ。
変わり観る歓び。
(2017/3/27)