書いといて「嘘だろ?」と驚く程、長くなりました。
誠にあいすみませんが、それぞれ良い塩梅に、小分けにする等なさってご覧下さい。
木曜はあっさり仕上げます。
では記事へ。
《育てる世界》
本業は『消しゴム版画家』と言う、気軽なんだか立派なんだか良く分からない、謎なもの。
だが、この存在が書いた文章は、筆一本で食ってる端末達の多くを遥かに越える明晰さに満ちている。
80年代から2000年をちょっと過ぎた頃まで、『ナンシー関』という名前で、コラムニストとしてもご活躍だった。
気づいた時には既に鬼籍に入られていたが、彼女が世の中へ向ける中立な目線と、その誠実な描き方は本当に素晴らしかった。
そして抜群に文章が上手かった。
版画もうまい。
材料を幾度も漉してなめらかにし、臭みを消して美味しい料理を作る様に、その仕事は丁寧で澱みなく、彼女の文章を味わうことですっかり舌が肥えた不覚時代には、他で書かれたコラムやエッセーの殆どをとても読み辛く感じた。
塩気が強かったり、鱗や小骨が残ってたり、筋っぽかったり生臭さがあると、途端に箸がとまる。
もう結構と、数行で目が追わなくなる。
どれだけ流暢に書いてあっても、文字の隙間から「これが持ち味、そしてそんな私を見て!知って!感じて!」が流れ出れば、何にでも秘伝のタレをかけられる様なもので、それも食べる気が失せた。
ナンシー関の作品は素材の持ち味が活かされ、自分臭さは無く、見事なまでに美味しかった。
食べ続けた結果、グルメになるのも仕方ない。
39年の生涯を周囲がびっくりするヒョイっと加減で終えられたので、興味を向けた頃はまるで宴の後みたいな状態だった。
だがそれでも何とか、とにかく何とかして、ナンシーに参加したかった。
彼女が観ていた景色を求めて、既に過去になっていたミレニアムや、90年代80年代遺跡をほっくり返した時期もある。
あのまなざしが、「面白い」や「これは変だ」と感じたものが何なのか、知りたかった。
元々「人間の行いの移り変わり」に対する興味は持っていたが、この“文化遺跡発掘”のお陰もあって、本来知りもしないはずの題材も当宮記事で扱うことが出来ている。
有り難いことである。
上手いとか丁寧とか、そうしたことを超えて、2018時点でこの方の文章を未だ希有なものにしているのが、
「自らさえも勘定に入れて、万人を並列に観る点」。
不覚のまま生きているので当然に好き嫌いも出して来るが同時に、その「好く自分」や「嫌う自分」も離れた場所から観ることが出来ている。
自然に出来ていたと言うよりは、意識し、常に離して観ることを怠らなかったと感じる。
克己心で観察をし続ける。
そこに彼女の誠実が在る。
中立に対象を観察する姿勢の大切さを、不覚時代の宮司はあの大きな背中に教わっていた。
目が覚めてからも敬愛は増すばかりだが、ここで彼女の存在が意識に飛来するとは思っても見なかった。
何故今?と首を傾げ、そう言えば何かこの端末に向けて「言っていない言葉がある」気がした。
元々一面識もない端末に、「言ってないこと」も何もないはずだが、意識を向けてみて不意にそれが分かり、本日記事に書く理由も併せて腑に落ちた。
彼女は結婚をせず、子供も居なかった。
肉の存在としては母の役割をせずに人生を終えた訳だが、彼女の成した仕事からは大きく深い母性が伝わって来る。
関直美個人としては「好いて」「嫌って」いる者達をも、個を超えた奥底から、本質的には平等に見つめていた。
彼女自身はクールと認識していたかも知れないが、冷たいのではなく「べちゃべちゃとした情を盛られていない慈愛」である。
そしてそれは、1980・90年代頃には相当珍しかったろう、全母のまなざしなのだ。
だから沢山の人々が、彼女の観点に全幅の信頼を置き、それが失われた時に、大きなショックを感じたのも良く分かる。
肉の年齢では彼女より年上の端末達であっても、哀しみとも違う、ちょっと言い難いショックを受けていることを追悼文などから感じた時に、「そりゃそうだ」と頷いた。
後輩や同業者や友人ではなく、全母との連結ポイントを失った衝撃がそこにはあるのだ。
彼女がテレビに関するコラムを書いていた頃は、2018より遥かに社会に対するテレビの影響力は甚大だった。
集まる力も大きかったし、そこに巣食う者も多かった。
そんな大きな渦に「変なことは変だ」と単独で槍を向けるのはドンキホーテ超えのチャレンジであり、いくら槍さばきの腕が立っても、消耗はそれこそ尋常じゃなかったろう。
明菜級の男気端末。
↑から更にサンチョも引かれる。
周囲が驚くペースで世をお去りになったのも、特に不思議なことではない。
男気、そしてこの端末に関してはやはり母性がキーワード。
「かわいい我が子」みたいに対象を区切って定めたりしない真の母性、全母性を抜きにしてナンシー仕事の本質を理解することは出来ない。
彼女はとても知的だが、あの働きを知性のみで踏襲しようとしたとして、かけるのは恥だけとなる。
宮司がある意味最高傑作と感じているナンシー仕事がある。
そこには、理性で封じていた彼女本来の溢れる全母性が遺憾なく発揮されている。
『記憶スケッチアカデミー』と言う企画で、本人の作品も出て来るが、お題を出して読者から絵を募ったものがメインである。
「サンタクロース」「カマキリ」等の題材を、「名前は知っているけど、どんな形だっけ?」と、調べずに記憶をたぐることでのみ描いて行く。
カマキリ。カマキリ?
それに彼女がコメントを付ける。
その厳しかったり笑いに変えたり優しかったり様々な対応の中に、個を超えた全母のまなざしが感じられる。
だからこそ、下は3歳から上は90幾つと言う幅広い年齢層の参加者、時には「絵など描こうとも思って来なかった」端末までもが、それぞれ首を捻りながら筆をとるのだ。
表現することを通じ、老若男女がナンシーの手の平で憩う様子は、可笑し味を持ちつつ、最早有り難い領域にある。
ペコちゃんの彼方にあるものを観る試み。
物理的には子を産んでいない端末も、それぞれが成す、仕事も含めた様々な振舞いによって、全母が生む物理次元の光を育てている。
光は点滅し続け、進化も続く。
ある地点で彼女が成した「書く」と言う発光。
宮司を名乗る“これ”が「読む」ことによって光る時、“これ”の光を彼女の光から育てて貰っていたのだ。
光が光に呼応して、進化する時、育ては起きている。
生むのは全母。
そして育ては実は誰もが行っている。
女であるとかないとか、産んでいるとかいないとか、関係ない。
愛で動く時、誰もが誰もを育てている。
ドラマにもなりました。
世界には育つと言う本質がある。
世界は育つ、育てるものなのだ。
このことを発見し、納得して微笑んだ時に、彼女に「言っていない言葉」が何なのか分かった。
「生みの親より育ての親よ」とか言うが、生みでも育てでも親は親。
ありがとう。
あなたの子は
こんなに大きくなりました。
光育む、慧眼の女神。
(2018/4/2)