《神の現われ》

 

本日1月6日は神現祭、顕現祭、公現祭とも呼ばれる祝いの日

キリストが降誕した後、「出来上がりこちらで~す」とばかりに、人々の前に姿を現した日と言われている。

絵で観ると、出来たてホヤホヤ感があるのから、結構仕上がった状態で出されているのから、色々ある。

 


自分らをいつか・何とか・いい感じにしてくれる救世主を求める人々にとっては、「いよっ、目出度い!」「頼んます!」な日。

いつはなく常に今だし、何にでもなるし、良いも悪いもないのが物理次元だが、エゴはそれを受け容れられない。

エゴが緩んで外れたり、溶け出して消えたりし始めている皆様は、神現祭は自ら分神としての神性を発揮する決意を新たにし、それを祝う日となさって頂きたい。

遡ること数日。

大晦日に宮司は、自ら行動し、限界を超える新体験をして、それでいて自分を神だとまるで思っていない、数多の神々を発見していた。

 


普段テレビを観ないので珍しさが面白かったこともあるが飽きもせず、開始から年の明ける十数分前に番組が終了するまで、ずっと観ていた。

見れば見る程、興味深い世界である。

御存じない方に向けてざっとあらましをご説明すると、SASUKEとは100人の出場者が、1st、2nd、3rd、FINALの4段階に分かれた各ステージの障害物をクリアして行く、巨大なフィールドアスレチック

戦いは立ちはだかるステージに施された仕掛けとの戦いであり、そして己との戦いである。

 


全員が同じ物に挑み、超えようとしている。

成績順の格差や、達成者の定員がないので、潰し合いはなく、“上手くやる”ことも出来ない。

一切の根回し誤魔化しがきかないチャレンジである。

人が画策なしに集中をするこんなことが出来るのかと、驚く程の澄んだ動きを沢山見ることが出来た。

企む必要がない為、恨みようがないし、妬みようもないのだろうか。

 


SASUKEの会場には尊敬と友情と親しみの混ざった不思議な温かさが発生していた。


一人のチャレンジを多くの参加者や彼らを応援する人々が、揃って期待を込めて見つめる。

先へ進めず、泥水に落ちたり時間切れになって終わると、親しい人でもその日初めて会ったで人も「あぁ~!!!」と、全力で悔しがる。

誰かの失敗を「神に愛されていない」こととし、「では、自分には愛が回って来るのではないか」と、成功に繋がるとほくそ笑むような、そんなぬるい空気はあの場所にはなかった。

不運漫然と眺めて比べる暇があったら、己と向き合い集中を高めるのがSASUKEの世界である。

 


張りつめているのに、温かい。

「何と不思議な…」

と、画面に見入った。

2019の不覚社会は、エゴの泥仕合どんどんごたつく有様を散々見せてくれた。

その最後の日に、身体的にも精神的にも人の内に宿る神性が垣間見える姿が、目の前に出て来るとは驚いた。彼らは、

国籍年齢職業性別関係なく、教えを請うたり、応援したりする。

 


自らのチャレンジが後に控える者でも、他の選手に並走してをかけ、支え励ましたりする。

思いがけない所で水に落ち、悔し涙でインタビューに答えたすぐ後に、そこを突破した選手の応援で笑顔が出る。

引退した者も駆けつけて応援するし、現役参加者の一員の様に迎え入れられる。

味わい深いのは、このSASUKEと言う舞台を降りれば、参加者の多くが様々な職種の“一般人”であると言うこと。

 


広範囲に人気集めをしなくても、お構いなしに生きて行ける人々である。

家族の一員で、職場の一員で、その上に時々SASUKEの一員。
 
跳んだり走ったり持ち上げたり、GOALの赤いポッチを叩くまでにえらい奮闘を重ねる旦那を、お子さん連れで見守る真剣な表情の奥様方を観ていて、こう言うのが人が際限なく求めて来たリア充の本来なんじゃないのだろうかと唸った。

 


赤いポッチを人生で何回叩こうが、出世増収が見込まれる訳ではない。

そんなこと気にせずに、全力で進む人全力で応援する

その一瞬に、全集中する。そして彼らの輝く場所を、こつこつと作り上げた神々も居る。

「粋だなぁ」

と、感嘆した。

 


人の粋は、努力の跡を見せずにスマートに表現されるが、「こう見られたい」と言う思惑で作ったポーズ抜きに、惜しみない集中捧げられるのは“神の粋”である。

FINALを制した者は居なかったが、そんなこともどうでも良く、人が人のままでありながら神々しさを溢れさせる瞬間を、ありがたく見せて頂いた。

完全に覚める前から、あれだけ輝ける。

それが分かったことも、感謝である。

 

祝い合う、全力の神々。

(2020/01/06)