やはり重要な部分が多く切るに切れず、どうにも長くなりました。


週明けから再びあいすみませんが、適度の調節で飽きない程度になさってご覧下さい。

では記事へ。

 

 

《愛の合流》

 


この物語を観察するうち、要所要所に水による恵みのあることに気づいた。

幕明けも、突然の雨である。
 

上流階級の紳士淑女は大急ぎで馬車に乗り込み、それぞれ帰途につく。

雨でお客が減る一方の街中では、どうにか商品をさばこうと花売り娘が走り回る。

天の水は世のどこにでも、場所を選ばずに舞い降りる。

天の意も同じこと。

惜しみなく自らの役割を全うし、未知の可能性も受け入れる素直な者に、天意は常に機会をもたらしている。

 


この雨が彼らを引き合わせたとも言える。

訛りのない話し方を覚えたいと言うシンプルな願いは、イライザ本人からのもの

そこに賭けの要素が加わって、話し方や気品ある振る舞いを身につけて、上流階級の舞踏会に出る試みに発展。

「後からの学びで生まれ育ちを超えられるか」

と言う大きなテーマのチャレンジとなった。

彼らは惜しみなく努力した。

ピカリングも付き合いながら見守ったが、教授とイライザは特に体力や精神の限界まで探求し、模索し、修練を重ねた

 


全く異なる境遇の彼ら。実はこの二人には、とても良く似た所がある。

教授は元々、生活の為に働く必要のない社会階層に居る人物。

庶民に関わらなくても別に困りはしないが、音声学者と言う仕事を愛している彼は、どの階層の調査研究も怠らない

そしてどんな生まれ育ちの人物でも、正しく学びさえすれば誰とでも対等に話が出来る様になると、結論を出した。

更に、それを実験して証明しようとする。

 


大勢より秀で続けたかったり、格上でありたいだけの者達には到底真似出来ない、健やかな感性が彼の意識の奥底にはある。

上流階級の中では相当の変わり者と言える。

そしてイライザも又、変わり者である。

後ろ盾となるどころか、逆に金をせびるって来る親にも、手厳しくしつつ優しい。

世の中の不公平を恨まずに、「話し方を覚えて立派な花屋の売り子になるんだ」と自らで決意

住む世界がまるで違う様な教授の元も臆せずに訪ねて、ちゃんとお金を払うから話し方を教えるよう求める

 


教授に貰った金も元手になっているだろうが、それを食べたり遊んだりにあてたって良かったのだ。
 
しかし彼女は学んで変わることに向ける方を選んだ。
 
イライザには「金持ちが貧乏人から金をとるのかい?」的な甘えは微塵もない。
 
これが本物の気品ではないだろうか。

 


それぞれがはぐれ者の変わり者。
 
そんな二人が、社会で最も洗練された場所でも通用する話し方を覚えて、その場に集まる人々を魅了してみせると言うのは、一つの革命である。
 
階層を超えて力を合わせ、人の持つ無限の可能性一端を示そうと言う、素晴らしいチャレンジだ。
 
ところがそれが華々しい成功を収めて終わった時に、教授は自分の研鑽と努力、才能の賜物だとして浮かれた。
 
そして、イライザの協力あっての達成だと言うことをツルっと忘れてしまった
 
手を取り踊ってくれた相手から、成果を挙げた出来の良い仕掛けの様に扱われて、イライザは涙する。

 


教授の方は調子に乗り続け、イライザの訴えた怒りと悲しみも、片意地と皮肉で突っぱねる。
 
女の欠点ばかりをあげつらって、孤高の男を気取っていた拗らせおじさんは、彼女と過ごす日々で自身もどれだけ変わって行ったか、全く分かっていなかった。
 
教えて教わって、互いに学び育っていたのだ。
片方が施しを与えたのではない。
 
教授はイライザが去って初めて、意識の大地震を経験する。
 
実家に行ったら当然の様に、母親と彼女がお茶を楽しんでいる

 


息子なのに何だか蚊帳の外。
 
全母御神体の交流を前にして、大人になりきれずにむくれる分割意識の姿が、このシーンによく表れている。
 
その場でも揉めてしまい、凹まされて、呪いじみた暴言を吐き散らしながらの帰り道。
 
教授はようやく彼女の面影が意識に浮かび続けることを認め、素直にしょげる。
 


 自分の都合に合わせた想像の彼女ではなく、そのままの彼女を求めて、出会った頃に録音した懐かしい声を再生し耳を澄ましていた時。
 
不意にその声が、今のイライザによって「更新」される。
 
振り返らずに被っていた帽子で顔を隠し、まるで普段通りと言う風に、背後に居るはずのイライザに向かって自分のスリッパはどこかと尋ねる教授。
 
微笑むイライザが何か言う前に、物語は終幕となる。
 


 この話の原作となったバーナード・ショーの『ピグマリオン』は、全く異なる結末を迎えている。
 
イライザは、友人と結婚するかも知れないと告げて、教授の元を離れて行く。
 
階層に縛られない人間の自立を描きたかった原作者が、全力で抵抗したにもかかわらず、『ピグマリオン』『マイ・フェア・レディ』となり、教授とイライザが結ばれることを予感させる様な締めくくりに変更され、その結果、更に人気を博した。
 
何故人々は、そうした終わり方を求めたのか。
 
それは意識の奥底に眠る、「異なる者同士の合流による全一化」を求める意志があったからである。
 


全身全霊でのチャレンジによって、まるで別の所にあった者達が理解しあい結ばれる
 
とは、男と女の別であり、社会的立場の別であり、知識教養の別であり、年齢の別でもある。
 
そうした別は全て「分割意識御神体」に重なる。
 
に始まって、劇的な難関突破の切っ掛けとなったのもスペインの平野に降るだった、この物語。
 
最後は、帽子で隠した教授ので幕を下ろす。
 
彼の様に一回ぺっちゃんこになるのも、やってみたければ止めはしない。
 
けれども、本日記事をご覧になられているグッドセンスな皆様は、大揺れが起きるのを待たずに今この瞬間にも御神体感謝を捧げることが出来る。

 


分割意識は、御神体の力添えがなければ、家(=内)を歩むスリッパの在りかだって、分からないのだ。


 
全て自分の手柄と思い込む男(分割意識)の小ささ
 
花開く女(御神体)の可能性無限大であること
 
そして、意識素直になりさえすれば常に共にあること
 

 

『マイ・フェア・レディ』はそんな数々の教えが示されている、進化変容呼び水となる物語なのである。
 

素直なくして合流なし。

(2019/3/25)