《不覚は青春》

 

 不覚社会の粗い波動にうんざりし、もういい加減にそこを抜けたいという思いは、スピリチュアルに縁の深い方ほど強いかも知れない。

 ただ、うんざりした時に祝えぬものを足元に追いやって固めてしまうと、逆にそれが足かせになったりする。堂々めぐりの抵抗を溶かすために申し上げると、不覚は招かざる客ではない。

 不覚とは人間意識が神意識に変容する前の青春なのだ。

 

 青春は愚かで、惑い、傷つき、何につけ過剰である。


 だが青春時代はそれでいい。大人になった時にくすぐったいぐらいの気恥ずかしさと笑いでほんのり和む「混乱の総決算」が青春時代だからだ。

 そんなことを気づかせてくれる曲をご紹介。

青春時代/森田公一とトップギャラン
作詞:阿久悠 作曲:森田公一

 

卒業までの半年で
答えを出すと言うけれど
二人が暮らした年月を
何で計ればいいのだろう
青春時代が夢なんて
あとからほのぼの想うもの
青春時代の真ん中は
道に迷っているばかり

 

二人はもはや美しい
季節を生きてしまったか
あなたは少女の時を過ぎ
愛に悲しむ女(ひと)になる


青春時代が夢なんて
 あとからほのぼの想うもの
青春時代の真ん中は
胸に刺(とげ)さすことばかり

 

 “半年”とは、未だ目覚めぬ「半ばの年」を意味する。
 “愛に悲しむ”は虚空の天意の元、男性性より先に大人に成長する女性性の変化があらわれている絶妙な言い回しだと思う。虚空の分母にふりかえる分子としての愛が開き始めると、「慈悲」の感覚を覚える体験が起こる。

 

 一時期、ずっと鳴り止まないこだまのような胸の痛みを体験したことがある。どこかの部分が痛いというのではなく、存在の内側から響いてくる。
 その時に、これは神が感じてきた悲しみだということに気づいた。

 至福は変わらず常にある。全存在への愛おしさも勿論のこと。
 それと同時に、本当に胸の痛みとともに、悲しみとしか呼べない感覚がそこにある。
 それには人間感情の悲しみとは違い、被害者意識が全くない。
 自らには何の影響もない事を知っている。困る事も一つもない。

 

 ただ、全体の目覚めがせき止められて、もう本当は必要のない同じ動きをぐるぐるとしている事を観ての悲しみがあった。切なさやもどかしさだけでなく、深い慈愛の感覚を伴った悲しみである。


 悟った感溢れる人工的な至福表現が慈悲と呼ばれて来た気がするが、本当の慈悲はこの慈愛を伴った悲しみの方だ。意外や文字の方が合っていて、それだとされるフィーリングの方がずれていた。こんなパターンもある。

 

 「かなしみ」には「悲しみ」の他に「哀しみ」もあてられる。哀は愛(天意)と同じ「あい」の音を持ち、「かなし」は通常「哀し」と書くが「愛し」とも書く。

 「あいのかなしみ」は「愛の悲しみ」から、さらに「天意の愛しみ」へと進化する。

 

 その深遠な進化の旅にあることを思い、青春時代またその道の一部であることをお分かり頂くと、卒業への思い切りがつきやすくなるかも知れない。

 

 青春時代のまん中は「道に迷っているばかり」「胸に刺さすことばかり」で当たり前なのだ。

 だが進化の道を意志する限り、青春に留まり続けることは無い。ほのぼの思う地平から、青春を思う時が来る。

 

 青い春は素敵なものだとされているが、青いだけの春って本当に面白いだろうか?

 

 直線時間を基盤とした解釈では、熟さない未知の期間がたっぷりあるように感じられる青い時代が尊ばれた。もっと深く追えば、おそらく空(そら)の色に合わせて、青い春が祝われたのだろうが、ご承知の通り、空(くう)は何色にでも変化できる無色透明の存在で青の独占事業ではない。

 

 春は晴る。晴れ晴れと全ての色が無限に輝くのが本当の春である。

 意識の軸足が不覚から覚へと移り、青春時代が影のように朧げになった時は、こんな曲がよく似合う。

 

青春の影/チューリップ
作詞作曲:財津和夫

 

君の心へつづく長い一本道は
いつも僕を勇気づけた
とてもとてもけわしく細い道だったけど
今 君を 迎えにゆこう
自分の大きな夢を追うことが
今までの僕の仕事だったけど
君を幸せにするそれこそが
これからの僕の生きるしるし

 

愛を知ったために涙がはこばれて
君のひとみをこぼれたとき
恋のよろこびは愛のきびしさへの
かけはしにすぎないと
ただ風の中にたたずんで
君はやがてみつけていった
ただ風に涙をあずけて
君は女になっていった

 

君の家へ続くあの道を
今 足もとにたしかめて
今日から君はただの女
今日から僕はただの男


 これは、男性性と女性性の統合が見事にあらわれた歌だ。

 女性性の成長を見て決心した男性性が、自らの我欲を虚空へ返却し、女性性と共に活動してゆく統合の道を歩む様が描かれている。

 

 愛を悲しむ女になる、に同じく「愛を知ったために 涙がはこばれて」慈悲を体験した女性性は本来の輝きを放ち始める。恋い(乞い)願うよろこびは、愛(天意)のきびしさへ続く途中の段階だという真実は、技巧や謀略で勝ち得るものではない。ただ受け入れる中で発見する、「風の中にたたずんでやがてみつけるもの」なのだ。

 

 天意は別にきびしくもなんともないが、天意には自由の責任が伴う。その平静さは目覚めたばかりの端末にとってはあまりにクール過ぎ、それが“きびしさ”と表現されたように思う。

 

 面白いのは“今足もとにたしかめている”のに、“家へ続くあの道”となっていて、この道とは言ってない。
 かつて繋がっていた記憶があり、統合とは進化であり同時に帰還なのだとわかる。


 帰還した男性性はただの男、女性性はただの女となる。
「ただ」とは何か。


 動物的な意味合いではない。
 それならば男と女ではなく、雄と雌だ。

 

唯・只・但

 

 唯は口+小鳥で「はい(返事の声)」を意味する。
「それだけ、ただ一つ」や「行われるさま、ひたすら」、「ただし(条件や一部保留)」の意味の他に、「すぐに丁寧に返事をする事」の意味もある。

 

 只は口+ハで、口の象形に二つに分かれているものの象形を加えて、「話すときの言葉の余韻(微かに残る響き)」を意味する。
「ただ、ひたすら」の他に「わずか、たった」や「ただし」「普通」「無事」「無料」「それだけ」の意味がある。

 

 但は、只の持つ意味に「内容が無い、無駄」が加わる。
この字は形象文字で人+旦。「横を向く人と太陽の象形に地平線を示すーを加えた象形」。
地平線から日が昇る様で早朝とし、日を浴びた人の「肌脱ぎ(和服の袖から腕を抜いて上半身の肌をあらわにすること)」を意味すると言うが面白い。
日の下で、脱皮し進化するのが但なのだろうか。

 

 だとすれば。

 

 虚空の声に「はい、とすぐに丁寧に返事をして(応える行動をして)」

 

 虚空の放つ「言葉(意志)の余韻」として存在し

 

 地平線(物理次元)に浮かぶ太陽(アマテラス)のエネルギーを受けて「肌脱ぎ」(脱皮=進化)し続けるのが、

 

 ただの女でありただの男、ということになる。

 

 ただの、というと大したことのないとか、つまらないという意味に捉えられがちがだが、本気で読み解くと驚くほど美しい意味が現われてくる。

 青春を存分に味わったら、更に深いよろこびが待っているのだ。

 

あなたはとっくにあいされている。
 誰もがとっくにあいされている。

 

そして、こちらの方が知られていないが。

 

あなたはとっくにあいしている。
 そして誰もがとっくにあいしているのだ。

(2016/4/11)