《やぶれ得ぬもの》
人類は歳月をかけて、凡そありとあらゆる不覚の思考と感情を体験して来た。
結果、この変容の時代には、社会に起こることの殆どが既視感のある焼き直しになっている。
不遇や貧困、理不尽の“悲劇”も、出来事と言う包みを破いて、中身である本質を見れば体験し終えたことばかりなのだ。
レ・ミゼラブルは直訳すると“悲惨な人々”。
その名の通り、登場人物を様々な悲劇が襲う。
長くなるので割愛するが、そりゃもう色々な事態が巻き起こり、良くこんなに並べたもんだと感心する。
前もって『悲惨』と銘打たれた作品を、沢山の人がわざわざ観るのは何故か。
先日、上からこの題材を振られた当初は只々不思議だった。
実生活では、誰もが必死に悲惨を避けたがるのに。
恐いもの見たさから横目でチラリではなく、時や金、手間をかけてでも『悲惨』を鑑賞しようとするのは一体何故なのか。
ミュージカルや映画にもなった本作に、屈指の名場面がある。
愛した男に去られ、娘とも離ればなれ。
女工の職も失い、生活の為に娼婦となり、胸の病に蝕まれて行くファンティーヌ。
ちょろっと書いた二行だけでも既に不覚の言う『悲惨』が満載。
そんなファンティーヌが歌う『I Dreamed a Dream 』。ここに重要な情報が織り込まれていると気づいた。
直訳すれば「私は夢を見た」。
夢とは何か。違う人生を夢見たと言う。
そして夢見たものは実現しなかった。
この曲の邦題は『夢やぶれて』。
中に、“虎は夜にやってくる”と言う歌詞がある。
バーバパパみたいなフワっと感がなく、やぶれる様な夢ならば、それは張り子の虎だったのだ。
虎だから、虎と引き合う。
そして虎の爪により、引き裂かれる。
“こんなはずじゃなかった こんな地獄で暮らすなんて”と歌われもしている。
今を地獄だとするなら、地獄は続く。今しか存在しないから。
哀れな女の失意と絶望、惨めさの極致にある様なシーンが、画面や舞台の中心で歌い上げられる。
「彼女に比べれば幸せ」と、自分のマシさを確認する下卑た欲求を満たすだけなら、日々量産されるニュース記事で足りる。
『夢やぶれて』に払われている見えざる敬意には、そうした人間的欲望を超えたものを感じた。
眺めていて、これは「祝われぬ者」への祝福をすることで、押し込められたいのちを昇華する解放の儀式だと気づいた。
物理次元の持つ自浄作用の現われと言える。
敢えて不覚を体験しようと決めた人類の旅に在っては、苦しみや悲しみに満ちた内容でも「新しさ」があればそれは冒険である。
そして全母である虚空は人が表現するどの冒険も、天意で見つめている。
全母の子であり、本質的にはその母と同じである人型生命体も、「どの冒険も分け隔てなく全てが祝福される」と示す意志を持った存在なのだ。
この歌手のデビューにも、そのことが良く表われている。
彼女は公開オーディション番組で、『夢やぶれて』を披露したことで人生が一変し、望み通りに歌手となった。
『夢やぶれて』で夢が叶うと言う珍現象。
これはスーザン・ボイル自身の中立性があって、初めて成し得たことである。
不覚基準でに過ぎないが若くも美しくもなく、「歌手になりたい」と言っただけで客や審査員に嗤われる彼女。
その反応を十分承知しながら、それでも決してそこを恨まなかった。
ジョークで返せる程、余裕がある。
ファンティーヌと違い、「自分の為に世界が用意するもの」が足りないことを嘆いたりしなかった。
順風満帆でない中に在って「只、自らが成せること」を成したのである。
子供の頃から不器用で「お馬鹿なスージー」とからかわれ、両親を看取ってからは職も家族もなく、共に暮らすのは猫一匹。
そんな日々を知る由もない、会ったばかりの人々から放たれる無遠慮な視線。
それでも彼女は、怯みも憎みもしなかった。
ままならないことだらけの世界に向けて、収支の計算などせずに、渾身の愛で歌を捧げた。
思い描く夢は破れても、
対象を超えた愛は決して破れない。
惨めさに打ち砕かれ、日陰で朽ち行く女の魂の叫びが、
歌の形をとり、中立なる者を通して、
表舞台で光を浴びて、万雷の拍手を巻き起こす。
そこには分神たる人型生命体の本質、「全て栄えよ」と祝福する性質が鮮やかに現われている。
愛で夢を歌った女神。
(2017/11/30)