来週は記事更新をしないことになりました。
次回は26日になります。
では記事へ。
《0の愛》
「しろさんが友達0人計画と仰っていたので…」
先日お目にかかった方から、現在その方がなさっている実践について伺っていた折にそんなことを聞き、久し振りに思い出した。
宮司を名乗る“これ”は、不覚時代の社交を再三整理し、今の今は友達0人で、元気よく物理次元をエンジョイさせて頂いている。
仲の良さを確認する場は必要ないし、お写真もご一緒することはない。
どなたかとだけそうしたことをすると他の方と平等ではなくなると気がつき、最近では全て失礼させて頂いている。
これ程、コネとして美味しくない存在、現代社会では珍しいかもしれない。
不覚期に、友達だと思って下さっていた人々に別に絶縁状を届けた訳でもないので、「あの人は友達」と、今でも思っている方も居られるかも知れない。
しかし、「友達ですか」と尋ねられたら「違いますね」と返答する他ない。
勿論、「友達ではないですが、あなたはあなたとして深く愛しています」と申し上げる。
だが、友達ではない。
どうにも不覚者の「友達」には「ごく限られた重要な存在」と言う色が濃く、宮司は既にそうした常識が取れてしまっている。
不覚期と言う“生前”は割と善人に傾き、まあまあ社交家だった気がする。
ちなみに生前とは、覚と言う真の状態で「生」まれる「前」のことを指す。
そんな生まれる前の日々。
良く思われて素敵な人になりたいと言うよりは、単純に「うちは先祖代々、善人ばっか」と認識していたので、それが当たり前と信じて疑わなかった。
目が覚めてみたら、先祖代々善だけなんて者はいないし、善も悪も只の揺らぎになってしまった。
善と悪とで東西に別れて、あっちこっちで綱引きをしているその綱を
「よいしょっと、ハイ、ごめんなさいよ」
と、楽々跨いで物理次元を動き回っている。
情に溺れない分、覚には冷たいイメージがある方も居られるかも分からないが、初対面でも気軽に話すし、日常お会いする様々な方との会話を楽しんでいる。
特に親しい人を作らず、馴染みの店も作らず、ごくあっさりと世間を回遊している。
行っちゃいけない場所もないし、気が向けばどこへでもスタスタ入って行き、用が済めばヒョイと出て来る。
本当に自由だ。
そして不覚期とは比べ物にならない程、広く深く、人を含めた全体を愛している。
友達0人の立場から申し上げると、
人は寂しくならない為に人と居るのではない。
互いの存在を歓び合う為に居るのだ。
そうしたことがはっきりとした自覚なしでも何となく分かっている人々が、自然に互いを歓び合っているのを、通りかかった宮司も嬉しく眺めている。
余談だが友達0人について、「計画」や「作戦」を後につけて言われたりする。
だが、元々申し上げたのは「計画」でも「作戦」でもなく、
キャンペーン
「友達0人キャンペーン」が正式名称となる。
キャンペーンなので期間が限られる。
どう限られるかと言えば、
人類が愛について真の理解をするまで
となる。
人類は、と言うか人類にくっついているエゴは、愛と発情の区別がつかない。
その限界を超えて人々の間で愛についての理解が浸透した時、新聞の三行広告で「友達を募ります」と、出してみるつもりである。
その時、新聞と言うものが存在するかも分からないが、それはそれで別に知らせる方法があるだろう。
突然出来た友達100人と共に、
富士山の上でおにぎりを食べ、
ついでに余ったのを山頂から転がして追いかけ、
どっかしらの穴に入ったおにぎりを取りに地に潜り
不思議な地底世界を発見
しても全く差し支えない。
本日記事にて申し上げられるのは物理次元を愛している一端末が、
「人類が真に愛を知るまでは、友達100人の誰とも出会わなくとも結構」
と感じており、それで全く平気で暮らしていると言うこと。
出会わずとも、愛せるものなのだ。
0の中、愛も歓びも無限。
(2018/11/15)