《獅子身中の虫下し》

 

世人の多くは産まれたからには脚光を浴びたいという欲望を抱いている。

 

脚光とは高所にある舞台に立ち、その足を低所から照らされる光のことだ。

脚光を浴びるには、足下に集まる他者が要る。
羨望や嫉妬の眼差しが多量に注がれるような足でなければ、光が当たることはない。

 

例えばミュージカルを観に劇場に出かけて、舞台を見上げるような席に座って居ても意識の立ち位置が平等であれば、そこには全一の天意が満ちて自然な一体感が生まれる。


その時に演者の足を必要に応じて光が照らしても、それは只単に「見易いよね」というだけのことになる。

特定の場所に建物としてある劇場においても、ずっと居っぱなしで人類総出演の物理次元劇場においても、多くの端末を“その他大勢”扱いして見下せる低い位置に置き、しかもその場所に従え続けたいと言う愚かな欲は肥大化したエゴの欲望である。

 

人型生命体の本来持つ純粋で健全な意欲ではない。

 

脚光欲に代表されるような肥大したエゴの欲望には、仕掛け手が存在する。

エゴ自体も加圧プログラムとして分割意識に宿る寄生者だが、エゴと分割意識の癒着に巣食う虫が居る。

 

それはエゴを変質させ培養し、エゴの欲望が叶った時のご褒美ビジョンとともに意識に刺激を与え続ける。

意識は実現を望まなくなり、この“ビジョンに添えて投与される刺激”の方を求め続けるようになる。


だから、

叶わないのだ。

 

叶わないから、満たしきれない熱を伴って更にエゴが膨れ上がる。

 

だが、実際に叶うこともあるのだと思わせなければリアリティーを失って、いずれ分割意識達にばれる。


なのでチラつかせる“見せ金”として、虫側はたまに成功者を作る。

スピリチュアル業界で言うと、引き寄せや心理操作の喧伝者(けんでんしゃ)がこれにあたる。

 

実際このシステムは良く出来ていて、「宝くじ」のシステムに似ている。

 

 

本を出したり芸能活動をしたりと脚光を浴びて輝く喧伝者は、憧れを増幅させる為に数を少なく設定する。


そこと余りにも自分がかけ離れていると感じ、溜め息をついてやる気を失う分割意識達も取りこぼさないように、彼らのやる気を起こさせるカンフル剤として「もしかしたら自分達にも出来そうな」親しみやすさを持ったライトな喧伝者が数を増やして用意される。

 

ロトシックスと、

ミニロトの関係と同じ。

 

すぐに当たりが分かるスクラッチを毎週削ることと、パワースポットに通ってプチご利益を期待するのも全く同じことだ。

 

どれだけ親しみやすくなっても、特別感を出さないと意識が刺激を受けて興奮しない。
だから絶対に万人には行き渡らせない

 

無料の宝くじは存在しない。
買う人へのご褒美を差し引いても余りある収益が発生するように出来ている。

 

宝くじの本質は「帰って来ないかも知れないものに惜しまずエネルギーを捧げる」という富の禊であり、もっと深い公共事業なのだが、「当たりた〜い」思いが増幅し過ぎて変質している。宝くじにも虫がわくのだ。

 

虫が吸い上げる収益とは勿論、人型生命体のエネルギーである。

いのちとも呼ばれるそれは元々、全母の天意から放出された純粋無垢で素直なエネルギー
その高い周波数のままでは彼らには摂取することが出来ないので、食べられるように低次化する。

 

例えば以下のような思いから発生する荒い感情の揺らぎを加えて、目の粗いエネルギー加工する。

 

叶えたい
叶わない

人を蹴落としてでも
どうせ自分なんか
妬まれたら怖い
出し抜かれたら悔しい
失敗が怖い
成功が怖い
本当に叶うだろうか?
いいやきっと叶うはず
自分は神に愛されているだろうか?
他の皆よりも

ああ!

切ない!
不安だ!

幸せになりたい!
特別になりたい!

 

単なる例としてさらっとひと掬い不覚の喧噪から採取したが、全くきりがない。

 

一番の混乱の元は、その欲望が自分のものだと思い込むことだ。
全て全母から与えられていながら「自分が凄いのだ」「自分が恵まれているのだ」と思うことと同じ位、虫の出す幻灯を渡されて「自分がこの欲望を抱いている」と思うことは馬鹿げている。


抱く、という状態こそ、それが自分そのものではないことを最もよく表しているというのに。

 

余所の子を抱かされて「おぉ、よしよし」とあやしているのだ。
しかも子じゃなくて、かも知れない。どんどん重くなる

 

怪談じみて来たが、実際そんなところなのだ。
こんな間抜けなていたらくで何が万物の霊長なのだろう。

 

本来の気高さ役割も忘れ、餌場と成り果てた、虫の(めし)の種

 

身中に虫を飼う獅子よりも、惨めで哀れな生き物が、他に居るなら教えて欲しい。

 

この虫を下すのは獅子自らにしか出来ない。

 

2017以降は獅子が虫を下すのも手伝えと、タイトルの文言がそれを承諾するまで上から聴こえ続けた。
とは言え、暴れる虫の騒ぎに耐えながら、獅子が自ら正面向いて口を開けなければ、何も出来ない。

 

獅子が勝つか、が勝つか。
意欲が勝るか、欲望が勝るか。

 

この根比べの、どちらにも加勢することは出来ない。
だが、虫を抑えて真っ直ぐ向き合う獅子には、“根こそぎ一網打尽”な衝撃をご用意しておくと決めている。

巣にも効く。

先週土曜日に、久しぶりにお目にかかりました皆様、沢山の気づきと発見をありがとうございました。

あの会を通して今必要だと思われる情報を抽出し、来週に向け精査しております。

 

進化の道は一人道ですが、そのさなかに集ってみて、初めて分かることもあると感じました。

皆様の進化に恥じないよう、宮司も精進します。

 

(2016/11/17)