《泥を塗る》
「俺の顔に泥を塗りやがって」
相手の行いによって体面を損われたと感じ、憤慨した時に使われる言い回し。
「泥を塗る」と言う表現は、面目を失わせたり恥をかかせることを意味する。
だが、面目丸潰れになることは、既に古くなった自分像から離れる自由がやって来たと言うチャンスでもある。
その重要性に気づかない不覚社会は、泥を塗られた方も、塗った方も、ひたすら汚名をすすぐ為に頑張ったりする。
どうにか綺麗に見える状態に名を整えて、名誉を守ろうとあれこれ画策。
画策では、すすぐどころか泥の上に化粧を重ねることになる。
結果どんどん面の皮が厚くなり、鈍感になって行く。
顔で瓦が割れる様になっても、それは目覚めとは何の関係もない。
「泥を塗る・塗られる行い」は不名誉の元であり祝うのは難しいとお感じになる方へ、お勧め出来るものがある。
それが、
泥を使ったパックと洗顔
「えっ、俺にはちょっと」と躊躇いが起きた男性型の端末の方。
男性向けに作られた商品も出回っている。
どうでもいいがOTOKO・KAKUMEIって凄い名前。
ごちゃごちゃ言わずに、内に問いかけて必要を感じたら即トライされること。
泥であるからこそのきめ細かさを肌で感じて、初めて分かることがある。
鏡の前で、
泥を塗られているどころか、自ら塗っている
その姿を見つめ、体験に集中する。
集中しながらふと、意識に浮かんだものを「くっだらない」と感じても、全く問題ない。
古い情報を細かな粒子が掻き出している最中なので、自然な起こりと言える。
兎に角、本気で「そこに居られる」こと。
塗られみてもいい。
「あ〜顔、泥まみれ」
「会社の皆にはとても見せられない姿」
「て言うか、もう俺だか分からんかもな」
「そもそも“俺”とは、何でしょう」
等、しみじみと泥&顔のコンタクトを味わい、そしてそれをさっぱりと洗い流す。
泥の粒粒は微細であるから、皮膚の小さな凹凸の隅々まで行き渡る。
そこで自在に動かされ、仲良くなった皮脂や古い角質を連れて出て来る。
ちっちゃいからこそ、稀少でなく沢山あるからこそ、動かせるからこそ、出来ること。
泥には泥の仕事がある。
洗ってタオル等で水気を取ったら、両手を頬にあてて、以下の事実を確認して頂きたい。
顔に泥を塗った。
何者か分からなくなる程。
お陰で、肌すっきり。
本気で歩む時、そしてそれを味わう時。
そこには無駄なものも、無駄なことも、まずいものも、まずいことも、何ら存在しないのだ。
駄目なことって、別にない。
(2018/5/10)