(ほん)の心》

 

手軽に何か読んだり調べたりにはネットを使うが、本も必要だし面白いので、機会を見つけては散歩を兼ねて書店に行く。

紙の感触を指で味わって、捲ることで動きを出せる楽しみは、本ならではのものだ。
 
「これが面白いだろう」
「これが役立つだろう」
「これが素敵だろう」
「これは報せたい」
「これは分かち合いたい」

 

 

人の想いが見上げる程、そして見渡す限り沢山並んでいる。

「この辺りの棚は上品に整えられている」
「ここら辺の棚は何だかギラギラしている」

そんな風に眺めながら移動する。

ギラギラしている棚では、他の棚が上手に包んで隠しているエゴを丸出しにした「読んで!」が飛びついて来る。

 


溢れて来る情報の波に左右から押される感じで、進みが遅くなり

エゴ街道をゆく…」

と、腕組みしながらしみじみ歩いたりしている。

数メートルで終わるミニ街道は、過ぎたりちょっと曲がっただけで気配変わる
だから本屋は面白い。

面白がりつつ、「成る程、今の今はこの状態か」と確認する。

 


(もと)だから(ほん)なのに、

心、音で、来の、

本当に知る必要のあることを、

本気で書いているもの

なかなか見つからない。


それをするのが本を作る者と、本を売る者の、

それこそ本分であり、本義であり、本懐だろうに。

と言っても、今の今それがなかなか見つからないのが、別にまずい訳でもない。

只、ないだけ。そして目が、覚めていないだけである。


ちょいとエゴで遊ぶつもりが思いの外拗れて長引いた、ほんの出来心どう変化するのか

 

 

それをバードウォッチャーの様に確認しながら、気ままにエゴ街道を歩いている。
 
「これが面白いだろう」
「これが役立つだろう」
「これが素敵だろう」
「これは報せたい」
「これは分かち合いたい」
 
ものを、本気で伝えていますよ、と言うならそれはあんまり似ていないものを、どうやら似ていると思って混ぜこぜにしている。

 


本気夢中

本気夢中は違っていて、本気全体に則した動きを支え、進化変容を支え、それ自体で歓び満ちている

好き嫌いや個の都合と、本気は本来関係がない。

(もと)の気だからである。

夢中は荒れ狂った川も掛け声と共に飛び越える勢いであり、

本気は荒れ果てた地も黙々と耕し続ける静かななのだ。

 

本の心も母心。

(2019/1/24)