《意外な見落とし》
「一体全体、どういう訳だい?」
と、ある日の夕方、エスカレーターに乗ったところで上に問うた。
平生、ご参拝の皆様方と対話する機会を殆ど持たない宮司だが、皆様が思われていることが、全体の進化に必要な内容であれば“風を伝って”こちらにも届く。
聴く必要がある言葉を上が拾い、送って寄越すのだ。
それは不意に意識に響いて来る。
例えば、最近来たのが、
「自他がないと言う、実感が湧かない」
「上からメッセージが来ない」
だった。
何故そこで止まって、それ以上進まないのか。
止まってる方も別に何もしていない訳ではない。
あれこれした上で内側に浸透しないことに対して苦しんでいる。
一体全体どういうことか。
ふと、努力や根性、熱意や勇気と関係ないところで、「何かがズレている」と感じた。
で、冒頭の問いになる訳だが、即座に驚く様な、そして納得出来る答えが返って来た。
6階から5階に降りる間に、もう来た。
『彼らは、内側に問うていない。
真に内から問う時、初めて上に伝わる』
気づきは、ありがたい場所で問うたかどうかは全く関係がなく、必要があればあっちゅう間に来る。
「成る程ね〜」
感心しながら、エスカレーターが到着する前に、「よっ」と飛び降りた。
目が覚めると、端末ごとに差はあるだろうが幾分、振る舞いが自由になる。
つまり、メッセージが来ないと感じておられる方々の思う「上」は、自己像の外側から訪ねている相手。
個性やら信条やらの「自我のアウトライン」をなぞりながら頭上を探り、「この上に居るはず」とイメージした存在なのだ。
「大体ここら辺かな?」
だが、上に繫がる時、外からは無理だ。
「こんな姿形」「こんな性格」「この性別」「この役職」等の「これぞ自分」な要素のどれからも距離を置いた意識の中心。
その中心の、真上が「上」なのだ。
そこからしかそれぞれの「上」にアクセスすることは出来ない。
真上でなく「ナナメ上」から上にアクセスしようとすると、「個人の思惑」が加味されて情報の精度が落ちる。
「どこのだれそれさん」や「女としての私」等を挟んで尋ねて、「まともな答えが返って来る」はずもない。
なので「メッセージが聴こえない」「ピンと来ない」で、当たり前なのである。
上が出払っている訳ではない。
内なる中心を起点にした真上を尋ねていない。
ズレの元になっているこの見落としに気がつき、納得した。
そして更に驚かされた見落としが、上に言われたこちら。
『 目覚めぬ者の
求めている目覚めとは、
エゴの目覚め 』
「そりゃ、無理だよ!」
と、久々ひっくり返りそうになった。
ごく一部の方に限ってではあるが、意志しておられる「目覚めたい私」が意識そのものではなく、意識に色付けした自己像であり、意識と一体化したエゴぐるみなのだそうだ。
裸デザインのエゴを着ぐるみみたいに着て、「素っ裸です、よろしくお願いします」となっている状態。
自他のない実感が湧かない理由がここにある。
エゴとは「自他と言う概念」そのものだからだ。
歯に衣着せず、もっとはっきり言うなら
「自他と言う幻想」
である。
エゴぐるみを通さない、純粋意識とは何かを感じるのに、分かりやすい例を申し上げる。
スポーツ観戦、舞台鑑賞、何でも良いが、我を忘れる程の集中に見舞われた時、それで気を失ったりはなさらないだろう。
「感動する度、失神する」と言う希有な方を除いて、皆様の殆どが、只、虚空に浮かぶ2つの目になった様に、ことのなり行きを見守って居られたと思う。
『自らってこんな者』は不覚の日常生活における大前提。
そんな普段馴染みの自分像が全てガサッと抜け落ちて、虚空に浮かぶ2つの目となって、そしてその目を閉じたとしても、五感の全てを閉じたとしても。
それでもそこに残るもの。
それがあなたの真の自己だ。
けしてきえない、ものこそが。
(2017/9/21)