「人類が祝えずに来たものの歓びを発見する」と言う試みで、《愉しむシリーズ》を木曜記事で3回程、書かせて頂くことになりました。
第一回目は「孤独」です。
では記事へ。
《孤独を愉しむ》
ここ数年観察して来た、世間の片隅でひっそりと続くブームがある。
ひとりで何かする系ドラマ
代表的と言えるのがこの作品であり、2017時点でシーズン6まで続いている。
雑貨輸入商である主人公の男性は、仕事の為に自ら様々な土地に赴く。
仕事の様子&その前後に彼が立ち寄る飲食店でのひと時で、一回が構成されている。
仕事をON、休日や自宅での時間がOFFだとすると、飲食店での時間はONでもOFFでもないエアポケットの時間。
その狭間のひと時で、彼は初めての店で初めての料理に向かい合う。
男性ではなく女性、飯より酒がメインと言うパターンの作品も発生。
又、向かい合う対象が食物ではなく動物、という作品も出て来た。
一見バラバラな様だが、あるポイントでこの3作品は一致している。
飯、酒、猫等の何かにひとりで向き合うシーンがあり、
そこに流れる
体感時間がゆっくり
と言うところ。
彼らの体感する流れと比べてみると、不覚社会で繰り返されている思考&感情反応のセットが、如何に「矢継ぎ早」であるかが分かる。
不覚者は複数名で過ごす時、「主導権を握る」と言う狙いの元に、互いの世界観や美学、学識、主張等様々な披露の応酬をしがちである。
そうした思惑の介在しない領域で自由に振る舞う時、思わぬ発見や満足が訪れる。
この3作の中では、女が酒を飲む作品が最もかしましく、薀蓄や、不覚常識を焼き直すような発言も出て来る。
だが主人公に、起きることを受け入れる姿勢があり、それが初めての発見への新鮮な驚きや感動をもたらしている。
不覚であっても、彼女のハートは開かれている。
そうすると、知らぬ間に全一の流れに乗っかれることが分かる。
男が猫を飼う作品では、斬れと依頼された猫を助け、殺した風に装って逃がしたら、当の猫が家にまで来てそのまま居着いてしまう。
猫は人の思惑に沿って動かない。
予期せぬ事態に翻弄されながら、男は次第に「人が普段感じ取れなくなっている、とてもきめ細かい周波数の何か」を、猫との暮らしを通して知って行く。
侍として強くなったかどうかは描かれないが、強くなっているのではないだろうか。
肉体の鍛錬では成せない修行もある。
視聴者は番組内で飲んだり食べたり撫でたりする主人公の背中越しに、「ひとりあること」の自由と内省を追体験する。
“時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たす時、
束の間、彼は自分勝手になり、自由になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わずものを食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代人に平等に与えられた、最高の癒しと言えるのである。”
これは最初にあげた作品のオープニングで、趣旨を宣言するかの様に毎回唱えられる“お題目”である。
折角の内省チャンスを、癒しどまりにしなくとも良いような気もするが、まだ癒しが目新しかった頃に始まった作品なので、乗っけてみたのだろう。
とは言えこの人物、ある画期的な面を番組上で見せている。
ひとりなのに、寂しそうではない
カップル、家族連れ、友達同士、結構な数の集団と共に馴染みのない空間に在って、自身はひとり。
そこに全く頓着せず、悠々と食事を愉しむ彼の健やかさに、視聴者は
「あっ、ひとりって必ずしも、寂しがらなくていいのか」
と、気づく。
女が酒を飲む作品でもこの気づきの恩恵にはあずかれるのだが、殊に、男がこの役をやることが意義深いと唸った。
何故なら不覚社会で、
男がひとりになることは結構難しい
からである。
これについては長くなるので、別の機会に申し上げることにする。
不覚社会を色も音もなく覆う「ひとりでいることへの抵抗」がある。
現在はひとりで過ごすことを楽しむ方も増えているそうだが、未だ「ひとりはちょっと…」となる方も多い。
ひとりが苦手な方は、「ひとり+a」のaを見つけると、ひとりチャレンジに参入しやすくなる。
aとは飯・酒・猫に連なる、ご自身の「ひとりのお供」となるワンクッション要素。
水泳にも、いきなり水に飛び込んで上達するタイプと、水に入っただけで慣れない感じから嫌になるタイプがある。
嫌になる派が水に親しむ第一歩としてお供になるのがビート板。
「ひとり=寂しい」プログラムがすぐに発動する癖をお持ちな方は、いたずらに気分を沈ませないビート板的存在を用意し、それらと共に「ひとりの時」を試みてみられることをお勧めする。
ワーワー言って来る自己主張の多い存在ではなく、出来ればこの様に片手で持ちあげられる程の、軽めのものが扱いやすい。
個体差はあるが生命体だと何かと主張も出て来るので、ゴーイングマイウェイな性格のネコでギリではないだろうか。
観察しながらの内省には、鳥や魚、虫の方が向く様に感じる。
どんなものがビート板になるか、探ってみるのも楽しい。
そして良さげな板が見つかったら、まずは練習あるのみ。
ここまで「ひとりで何かする系ドラマ」ブームが続いているのは、人々の内なる「ひとりへの希求」が疼いているからである。
こんなのも出て来た。
みんなで肩を寄せ合って一生懸命「幸せである根拠」をかき集めてきたが、本来したかったことではなかった。
それに奥底で気がついた意識達がソワソワし出し「取り敢えず、ひとりを感じてみることから始めよう」と、こうしてささやかなブームが編み出された。
意識は何かと予見をしたがる。
ドラマの主人公達の満ち足りた様子を観て「ちょっとやってみようかな」と、思った端末も居るだろうし、何より「ひとりあることの開放感」に、息を吹き返した者は多いのではないだろうか。
我々は虚空であり、虚空は正に「ひとりあるもの」そのもの。
物理次元に降り立つ分神達も意識は「ひとりある」のが通常モードであり、真価を発揮するのはそこに立ち返ってから。
食と共に、その解放も味わい、歓びとするのが真のグルメと言える。
孤独もご馳走。
(2017/6/15)