シリーズ 「 ここから分かること 」
《嗅覚の変化》
この感覚の変化は五感の中で最も気がつきにくいものだった。
明らかに不自然なデータを抱え込んで、再生を繰り返している者に遭遇した時に、その不穏な気配を“ニオイ”として感じる。
その能力は、変容に向かう途中で未だ不覚な状態でも既に開いていた。
天意でそこを開く場合もあるだろうが、どちらかと言えば自己防衛由来のチャネルになる。
嗅覚自体がもともと衛生面を初めとする種々の安全を確認する機能として、発達して来たものだからだ。
なので、気配のニオイ察知も安全確保(危機回避)に繋がる。そしてエゴにとってそれは優越感に繋がる。
ある地点まではとっても便利な機能なのだが、“それが分かっちゃうこと”や“それが分かっちゃう自分”にハマると、蟻塚の横穴に潜り込むように本道から外れる。
料理に対しては「いい匂い」とも言うので一概には言えないものの、大まかにニオイは有り難くないもの、カオリは有り難いものとする、人間意識の区分けがある。
変容途中の宮司は、ある時から“カオリ”の方も感じ取れるようになった。
高次の存在がコンタクトを取って来る時、一部の存在にあっては白檀や杉など様々な香が薫るのが分かるようになったのである。
初めは「えっ?!」と思ったが、今は「あいよっ」位の反応になっている。
覚悟なしに感性ばかりを鋭くしてきた端末だと、気配のカオリ察知は危機回避ではなく選民意識を経由してこちらも優越感に繋がる。
これまた“それが分かっちゃうこと”&“それが分かっちゃう自分”にハマると、蟻塚の横穴に潜り込むように本道から外れる。
嗅覚に限らずこうした能力の優越感をこじらせると患者が必要な医者と化し、不要なお医者さんごっこに付き合ってくれる者を探して彷徨うようになる。
能力の授与は、それすら時期が来たら手放すと言う、課題の付与である。
手放した後も、それが必要ならふさわしい時に、勝手に又出て来る。
但し、そこにドヤな優越は存在しない。
全一はそんな幼い地平ではないのだ。
宮司が起きてから気がついた嗅覚の変化は、「○○するようになった」というプラスの変化ではなく「○○しなくなった」という、マイナスの変化と言える。
集団で行動する時には会話の上などで必要が生じたりするのでまた別なのだが、こと単体で居る時に関しては
来た匂いが、過去の
記憶および感情と
いちいち紐づかない
これが大きな変化だった。
以下まとめて「匂い」とするが、「香り」でも同じことが言える。
目覚めてからこっち、来る匂い来る匂いが、花であったり料理であったりコロンであったりと以前嗅いだものと種類的には似ていても、単独で相対す時には必要な例外を除いて「今来た未知のもの」である。
必要な例外とは今の今において、全一に則する上で必要な情報として、過去と呼ばれる「ある時点」のデータが来る場合。
それと違い単なる経験則プログラムに乗る形で、「今」と言う瞬間にある匂いが到来した時に、それに類似する匂いを感じた過去のシーンがパッパツと頻繁に開かれることが不覚時代には良くあった。
思い起こす、感慨に浸る、これを人間意識は風情があるロマンティックな行為と捉えがちだ。
確かに、ほんのり香るスパイス程度ならロマンティックと言えるかも知れない。
だが今そこにある匂いに盛んに紐づけてその度に過去の記憶と感情が発生するのは、今の鈍化とエネルギーの浪費以外の何者でもない。
今以外のどこにも由来しない、「ただそれがそれである」のみの匂い。
だからこそ一期一会の存在として相対することができるのだ。
地味。大変に地味。
だが変化を分かって本当に驚き、そしてまた「楽だなぁ~」と一番感じたのは、この嗅覚の変化である。
それは、旧スタイルがいかに喧騒に満ち、エネルギーをすり減らし、混乱を増幅させてきたものかが、よくよく分かったから。
ひと嗅ぎするが早いか、過去の匂い記憶データの書庫を意識が走り回って、似ているものがあるかないか、安全か危険か、印象深い思い出はないか、もしあればそれは好きか嫌いかなどを調べまくる「ワーワー」プロセス。このワーワーが今はもう消えて、意識の奥がシンと静まり返っている。
もう嗅覚が(他の感覚もそうだが)、生き抜くために機能していないのが分かる。
台風一過の後の青空の何もなさに、見入るような清々しさ。
自然に呼吸も深くなる。
あまりにさりげなく、放っとくとすぐ忘れちゃうので、本日記事を書いたのを良い機会として、この地味かつ最高の変化に心から感謝を捧げる。
楽ったらありゃしない。
(2016/9/12)