《「どう思う?」?》
ご存知の通り、ごく一部の方が気が向いた時にお知らせ下さるものを除いては、当宮についてのご感想を宮司が知る機会はない。
例えるなら、この週2回行われる“活字による奉り”は、ボトルに入った手紙を海に流したり、種の入った包みをくくり付けた風船を空に飛ばすのに似ている。
今夏の祭でお目にかかった皆様から、ご感想を賜った時も、
「あの風船、
届いていたんだなぁ」
と感じた。
尽くすが返しへの期待はない。それは風とか、雨にも似ている。
先日列島を通過した台風の折、ずっと雨の音を聴きながら当宮用やその他の仕事をしていた。
降る雨に包まれた静かな気配の中で仕事がはかどり、満足して一旦手を休めた時ふと思った。
この雨が、全ての弥栄に働くといい。
それは意識が制限を超えることかも知れない。
何かを露呈することかも知れない。
エゴの存在を認めることかも知れない。
本気で腹をくくることかも知れない。
何がどうなるかは、どこの誰にも決められない。
個人的エゴにはおよそ歓迎出来ないことだったとしても、全体の弥栄に向かって働くといい。
そう思ってから、別に「といい」なんか言わなくとも当然にそう働くと気づき、笑って仕事に戻った。
雨が降る音を聴きながら、嵐が去って晴れ渡る季節が訪れてから神仏と遊ぶふろくを、出来る限り楽しんで作った。
おかげさまで、さほど有り難みのない、良い感じにゆるい仕上がりとなった。
その場その場で、
出来ることをする。
それが一番確かな祈りになる。
この様に力は尽くすが、こうした活動について特に「どう思う?」とは思わないし、これからも「どう思うか」を確かめることはない。
どっかの時点の「どう思うか」を伺うことが、結果として何かしらのヒントになることもある。
だが、それをこちらから求めたりはしないし、意識に上ることもない。
以前、「どう思ってると思う?」と言う声が、風に乗って遠くを流れて行くのを感じたことがあった。
だが、「特に何も」としか感想が出て来なかった。
不覚者にとって「どう思う?」は活動の原動力。
「どう思うか」が気になって、「こう思う」を増やしたくて、「ああ思う」を減らしたくて、懸命に藻掻いている。
又は「どう」でも「こう」でも「ああ」でも、兎に角何か「思って欲しい」と、藻掻いている。
「どう思う?」に囚われているかいないかを感じ取れると、覚と不覚の判別はぐっと易しくなる。
当宮の記事は、特定の誰かや何かを殊更イメージして書いている訳ではない。
モニターの後ろに広がる、真っ白な壁。
その奥の未知なるものに向けて放っている。
テニスの壁打ちみたいな感じである。
但し、球は返って来ない。殆どの場合。
だが返って来ないことが、渾身で放たない理由にはならない。
何て言うか、不覚に慣れた方にとっては信じ難いことかも知れないが、気にしてないのである。
気にならないので結果、気にしてないと言える。
そんな感じで、当宮につき「どう思う」かは頓着しないが、当宮の仕事が「伝わったかどうか」の目印は設けてある。
宮司が食事に立ち寄った店で、たまたま近くのテーブルに居た客達の中から
「ああ本当、楽になったわ〜。
もう、理由なんか無いの。
只、満たされてて、
説明出来ないけど。
何か、まさに、
言うことなしって感じ」
的な台詞が聴こえて来た時。
そして、その声の中に全一の実感を確認した時。
これを以て、当宮での諸々が「ある程度、波及した」とする。
と、決めている。
たまたま居合わせた見も知らぬ客に全一感覚が行き渡ったのだから、皆様にも当然に伝わっているし、皆様以外の沢山の方々にも伝わっている。
素晴らしいことだ。
その時は、ちょっと肩をすくめた後で、酒を一杯頼むつもりでいる。
思わぬまま愛すのみ。
(2017/9/28)