《駑馬の歓び》
“驥は一日にして千里なるも、駑馬も十駕すれば之に及ぶ”
先日、立ち寄った神社で
「やることめっちゃあるし増えてるね。
やればやる程増えるね。
流石にこれ全体はどうなっとんじゃい」
的な問いかけをして引いた御籤に冒頭の様に書かれてあり、「成程ね」と答えつつ嬉しくもなった。
何が成程かと言えば、
「やる必要はあるのよ。十倍やったら出来るんだからやんなさいよ」
と言う返しだったからだ。
「へぇ~い」と返し、十倍にするのはどこかな、となった。
時間を十倍、つまり十倍の期間をかけて成す。
集中を十倍、質を上げて成す。
仕事の速度は、集中と時間の掛け合わせで決まって来る。
どちらにもかなりの変化が必要と分かった。
嬉しかったのは、「駑馬が十駕する」と言う所である。
「驥」が、一日に千里も走る名馬のことを示すのに対し、「駑馬」とは足の遅い馬のこと。
不覚的には「凡人でも努力し続ければ、優れた人物に追いつくことが出来る」意味になるらしい。
不覚的には、と書いたのは覚にとって優れているかどうかは特に重要でないからである。
巡って来た機会を活かし必要な力を十分に発揮するだけなので、優れた者に追いつけ追い越せと言う発想がない。
嬉しかったのは、歩みが「遅」く「凡」だと言われたことだ。
ゆっくりの歩みは、それだけ観るものが多い。
物理次元には、体験と観察をしに来ているのである。
それが多ければ多い程、豊かではないだろうか?
体験を手間と嫌がり、観察をロクにしない者にとっては「遅」いことは苦痛であり、遅さの原因でありそうな「凡」は屈辱だろう。
有能であればちゃっちゃと千里を行けるのに、と歯噛みする。
駑の字の上部にある奴も「奴隷の奴だ」として、奴隷コンプレックスのある人々は嫌ったり馬鹿にしたりする。
そうした人々はついでに努力も嫌い馬鹿にする。
「奴」は、「女」の形が示す細やかさと、又の形で示される「手」を合わせた意味を持つ。
それは細やかにまめまめしく動く姿であり、この形そのものは隷属と特に関係がないのだ。
これに「女って奴隷じゃん?」と傾いた発想を持ち込んだ不覚者が、奴隷の意味を持たせただけである。
不覚の分割意識は随分長いこと空間に点滅するいのちの力、細やかな力、静かな力、やわらかな力、健気な力に甘えて好き放題して来たのだ。
女性性を担当する伴侶である、御神体にも随分甘えて来た。
好き放題を支えて来た補助輪が取れるのが、変容の時代である。
その恐怖に怯える分割意識のワガママBOY達は、ベソをかいたり別の輪っかを取り付けようと躍起になっている。
意識を安定させる為に補助を取り付ける時期は既に過ぎた。
車輪は本来、覚めた意識が役目を果たす、仕事を運ぶ為に取り付けるものだ。
十駕の「駕」とは、馬に車をつけて走る状態だと言う。
車がついている、と言うことは何かを乗せて引いているのだ。
道々で配るのか。必要な場所へ届けるのか。
どちらにしても、車を引く姿は役目を果たすと言うことに通じ、そこにも嬉しくなった。
歓びが増す中、更に深い気づきが意識に訪れた。
“驥は一日にして千里なるも、駑馬も十駕すれば之に及ぶ”
驥とは天翔けて日に千里を行く様な、分割意識の動き。
駑馬とはそこに十駕を以て添う、御神体の動き。
意識を巡らすだけなら容易いことで、実行し体験するのにはその十倍の力を要すると言うことである。
そして豊かさも歓びも十倍となる。
驥には駑馬の及び並ぶまで、根気よく集中と観察をする役目がある。
そして駑馬の歩みを愛おしみ、祝い、歓ぶこと。
「驥にして駑馬、駑馬にして驥か、楽しいな」
と、又嬉しくなった。
弥栄の道には、とき遅きも主従も優劣もないのである。
歩むごと、道の花みる歓び。
(2021/3/15)