《至りて去らぬ》

 

「うわ~、何か一際(ひときわ)爽やかだな」

 

 

 

と、ここ数日で涼しさが増した風を室内に招き入れ、夏の間とは明らかに違う意識の広がりと静けさとを、しみじみと味わっている

 

至福、としか言い表せない状態が、どんな動きをどんな速度でしていても、常に変わらずそこに在る

 

至福であることは変わらず、しかもそれが拡大する。

 

澄み渡る空間膨らむ感じ。

 

「福って、膨らむんだなぁ」

 

 

と、愉快な気持ちで思わず口にした。

 

殊に、秋分を過ぎた初めての週末に、この拡大はとてもはっきりと感じられた。

 

至福とは何か条件依るものではない

 

世の中が衝撃的な訃報に心が揺れたとか、地震に体が揺れた等で騒然となる様子を目にしても、

 

「去らないなぁ~、至福

 

と、改めての驚きと共に感心し、「そりゃそうか」と頷いた。

 

全体一つと言っても、個であることから自由だと、世間響き渡るショックに参加して揺れることが出来ない

 

ニュースにも只「了解」と答え、そして気合いが入るのみ。

 

何の気合いかと言えば、不覚者の多く感謝さっぱり注ごうとしない物理次元に対し、出来る限りの集中愛し感謝し素晴らしさ発見して行こうと言う気合い

 

そして、対象を限定しない母性である、全母性発揮して行こうと言う気合いである。

 

 

「出産すると自動的に母性と「この子の為なら何でも出来る」と言う力が湧く」

 

と、人々が認識していて、実際に大体そうした運びにもなっていた頃には、「個母性を十分に味わう」と言う時代のテーマがあった。

 

そこを過ぎて、只今は男女どちらの性であっても、血が繋がっていてもいなくても、どの位の年齢であっても、その他どんな条件も全く関係なしに母性を発動することが必要な時代となった。

 

 

全ての母として、今日この日、何が出来るのか。

 

「いつか」とか「そのうち」と言ったボヤっとした絵空事に用はない。

 

 (もと)の日、(いま)の日。何をするか。

 

そもそも常に、しか無いのだが、だったらいつでもいいじゃんと、内側が幼い人々が寝言を吐く分、真の大人全力投球

 

全力投球に、急がなきゃと言う焦りはない。

 

面倒くさいなと言う躊躇いもない。

 

至福裏打ちされて、

 

意志行動がピッタリ沿う状態。

 

 

至福抜きに、不覚これに似たことをしようとすると、恐らく後でとんでもない疲労が揺り返しとなって訪れる。

 

膨らんでない空間を手であちこち押して拡げようと頑張るみたいなもので、それは疲れる。

 

「我こうあらねば」と言う意図が、能力と相まってその無理くり拡げを可能にして来たが、変容の時代個としての拘りは、大変な重荷となる。

 

「人」が「固」められているで、「個」である。

 

固められるって何で?

 

勿論、固定観念で。

 

 

固まった観念は、古い情報を内包している。

 

それまでの積み重ねで得た一財産を背負って、ライフステージを移動し続けるのは骨が折れる。

 

(なん)何某(なにがし)と言う括りは、看板でなく付箋程度で十分なのだ。

 

至福は勿論、幸福さえも看板の付属品ではない。

 

看板や賞状をどっさり抱えた人生が幸福ならしないだろう選択で幕を閉じるのを見ても、そのことを認められないのなら、力尽きるまで幸福の幻影を追い続けることとなる。

 

それも又、人生。

 

福は、富久であり、不朽でもある。

 

絶えず豊かに自然と巡る。

 

至りて去らぬ中心に在り心底より申し上げる

 

ここは静かで、清々しく天意からの愛に満ちている。

 

突然の逝去には「これまで生きていて下さってありがとう。その中で様々なことをして下さってありがとう」と感謝を贈り、地震については「ヒッヒッフー」と合いの手を入れる。

 

それら含め、出来ること惜しみなく捧げている

 

福に至りて、澄んで吹く風。

(2020/9/28)