《自然な流れで》

 

この所、お熱不覚社会

 

外出すると度々、検温を求められる場所に行き会うことがある。

 

一時は人力が主流で、手に持った光線銃みたいな器具で熱を計って貰えることが良くあり、これが中々面白かった

 

何しろ、銃口めいたものを向けた所に額を差し出すなどこれまでしたことがなかった。

 

新しい体験には目がないので、どうにも愉快な気分が漏れる。

 

笑ってしまいそうになることもしばしばで、大体変な顔になって検温されていた。

 

あのささやかな楽しみをもたらしてくれた光線当ては最近減り、この所はパネルの前に立つと自動で検温が叶う所が増えた気がする。

 

 

消毒液も手で押して出すものから足で踏んだり、手をかざして自動出すものが増えて、「触れないこと」に世の中がどんどん慣れて行っている。

 

良いことでも悪いことでもなく只の変化なのだが、この「触れない」と言う変化どの様に波及し次に展開して行くか、興味深く観察している。

 

たまに光線銃に再会すると「わー」と、懐かしい感じがする。

 

ほんの数か月程前のことなのに、もう懐かしい。やはり今年の変化情報量は半端ない。

 

パネル検温にも光線式とは又、違った面白さがある。

 

 

何しろ、変化が目で追える。

 

本体が動いたら、パネルの中のシルエットも動く

 

それを見て「動くことで温度って変わるかな?」と知りたくなった。

 

周囲に誰も居なかったので驚かすこともないだろうと、パネルの前で飛び跳ねていたら、直ぐ近くにあったエレベーターの扉が開いて中に居た人がビックリしていた。

 

 

ビックリしながらもエレベーターから出て来て後ろに並ばれたので、会釈してパネル前をお譲りした。

 

結局動くことで温度が変わるのかどうかは、現時点では不明のままである。

 

昨年までの世の中では、体温にここまで注意が払われなかった。

 

お熱となったことで、自らの体温が平均より低いのか高いのかと言ったことに改めて気がつく人も増えた。

 

現代人は低体温化の傾向があるとか、体温から身体や健康について知ろうと言う動きも増えたことからそれを感じる。

 

 

そもそも、「ちょっとしたことで病院に行く」のが難しくなっている昨今。

 

先日、頼まれたものを代わりに取りに行くことで大きめの病院に入る機会に恵まれたが、以前見たことのある「調子が悪くなったら大事にして貰える」ユートピア的雰囲気はかき消えていた。

 

来る方も迎える方も、微妙な感じである。

 

「こんなにノリ重かったっけ、病院?」と見回したが、そう言えば底抜けに明るく歌って踊れるみたいな病院も見たことがない

 

 

元々そう明るいもんじゃなかった。

 

只、ほんのり優しい間接照明みたいな明るさがあった所から、大分トーンが下がった気がする。

 

人々の足が遠のく訳である。

 

その分、自前で何とかせんとならんと、必要に迫られて自らの御神体が只今どんな状態でいるのか細かく注意を向ける人が増えた。

 

そして、出来るだけ御神体の感覚合わせたペースで暮らそうとし始める人も増えている様である。

 

 

自然なペース生活すると分割意識「目を覚ますことの必要性」気がついたり、その気づきに通じる「まともな問い」を発する機会が増えたりする。

 

そうやって、繊細な気づきと共に日常において薄皮を剥がす様に少しずつ目を開いて行く人々も居るだろう。

 

逆に医療現場における最前線の様な厳しい環境に身を置き、意識問い突きつけてビックバンの様に目を覚ます人々も稀に居るだろう。

 

全く違う様でいて、どちらも同じ自然な流れである。

それぞれに、自然な運び。

(2020/12/10)