《疫を免る?》
気づきから始まってあれこれを調べていると、これまで知らなかったことにビックリする機会も生まれる。
知って驚くのはとても楽しい。
先日も、「免」と言う字の成り立ちを調べていてビックリすることが出来た。
えー!
切っ掛けはこの所、世の中で盛んに言われている「免疫力」と言う表現をどうにも奇妙に感じたこと。
そこから、もっと的を射た表し方があるのではないかと問いを放つ一方、「免」と「疫」に感じた奇妙さの元を辿ろうと、字について調べてみたのである。
「免」は出産する女性の姿を表したものだそうだ。
これによって字の意味に「暗いとこらから出る」、「出産が終わって苦痛を免れる」ことがあるのは分かるし、生まれ出ることは結果や成果と言えるから「許可する」の意味があるのも分かる。
しかし、苦しみや痛みが終わった状態から生まれた「やめさせる」の意味は、本来なら体験し昇華して終えたからやめると言う順に沿っている。
それが、嫌なことを避けて行くと言う回避ルートにどこで曲がったのだろうか。
不覚社会で言われている免疫の「免れる」に込められた望みは、体験して昇華すると言うより、嫌なことを体験せずに済ませる免除の意味合いに近い気がする。
免の字に付いている「儿」が、避けたいものからスタコラサッサと逃げ出す足じゃなく、子を生むのに広げた足であるなら、字の持つ深さは断然変わって来る。
免の字は、
母性の発動が
出来事の影響に
翻弄されない
状態を生む
ことを教えてくれる。
「疫」の字の成り立ちは、鉾を示す几と手を示す又を合わせて「動き」を意味し、それにやまいだれが乗っかっている。あっちこっち移動する病、この字だけで流行病を意味する。
「免疫」は本来、疫を丸ごと受け入れて昇華し、既に「質においては同じもの」と腑に落ちているので異物にならず、疫と取っ組み合いにならない状態。
「負けない体を作る」とか、「病に打ち勝つ強さ」みたいなものを意識するなら、それは抵抗であり免疫ではないが、この辺が割とごっちゃになっている。
「なーんだ、言葉が奇妙だったんじゃなくて、
言葉に含ませた人の願いが奇妙だったのか」
フワ~。
と、納得した。
「嫌なものは嫌!」と言う姿勢が、免疫を明後日の方向に捻じ曲げてしまったのかと、エゴの色んなものを横道に逸らして混乱させるはたらきを再確認した。
もっと的を射た表し方があるのではないかと問いには、とても重要な答が上から示された。
エゴの浸食がない、エゴさえ丸飲みにする答えが。
全体一つの流れは、宇宙全体で奏でられる調べとも言える。それに和する「調和力」。
溶けて調和する意味のある「融和力」。
これらには、まだ少しエゴが手を差し挟む隙が残っている。
エゴ持ちの意識には「調和しましょう」と言いながら一部の都合によって匙加減を変え調整しようとする厚かましさ、エゴの都合に合わせた上っ面の秩序を調和と言って憚らない図々しさがある。
示された答にはそんなエゴが我田引水を出来る余地はまるでなかった。
合一力
主客合一とか、知行合一とかでお馴染みの「合一」。
哲学や陽明学で合一は使われて来たが、そこから覚めた人が出て来ないのは、
一が何であるか
分かっていないから。
分かっていないと、良かれで全なる一の中に丸を描いて囲みそこだけを指して「いーち!」とする。それでは全一にならない。
善や悪に傾いて、斜めったまま走らせても同じ所をグルングルンするだけ。
片方のオールでボートを漕ぎながら、もう片方は振り上げて他の船を沈めようとする叩き合いをし続けて、一体どこに着くと言うのか。
申し上げるまでもなく、
全体で「一」である。
全一が「状態」を示すなら、合一は「動き」。
合一力が発揮される時、自然と調和しており、免疫と呼ばれる状態を生み出しもする。
あらゆるものを飲み込んで一なる世界を体感して行くか、恐怖に飲み込まれるか。
どちらも自由意志となる。
誰も代われぬ、一仕事。
(2020/8/20)