《有能ブーム》
「おや、憐憫の次は有能か」
何か気に入らないことがあると「俺かわいそう」「私かわいそう」と、痛みや不調に酔う者が増えて来たことについて、以前、《憐憫ブーム》と言う記事を書いたことがある。
憐憫傾向が珍しくなくなって来ると、もう「どれだけかわいそうな感じで鮮やかに目を引けるか」「どれだけ生きづらさをありありとアピール出来るか」で勝負と言った、“後ろ向きで前のめり”みたいな訳の分からない競い合いが起きたりする。
今の今はまだその途中だが、既に別の傾向も不覚社会に現れ始めている。
憐憫はやがて陳腐化する。次の流れでは、我が身を憐れんで座り込んだ者達に「憐憫?お大事に!」と笑って、追い越して行く者が多くなるだろう。
憐憫アンバサダーみたいだった生きづらさの代弁者が、さっさと衣替えしてそうした次の流れに加わる姿も出て来て不思議ない。
時代の風潮を上手く表現して支持を集めることが出来る者達の中には、有能さでそれを可能にしている者も居るからである。
ちなみに生きづらさの大抵は気に入らなさである。
気に入らないものを無理に気に入る様にする必要はない。
自らの言動以外、自分好みに変える権利など何処の誰にもないことを理解すれば、必死の叫びのつもりでいたものが単なる無茶振りだったことが明らかになり、意識の内側は静かになる。
私の気に入るように
変われよ世界!
と言ったって、世界は一個人の好みに合わせて着せ替わったりしないので、要求は通らない。
自由を封じる不自然な慣習について、「これ、妙じゃない?」と気づいて、変化することは出来る。
だが、「これ、妙じゃない?」に、別に辛さや苦しみは必要ない。只の「?」である。
辛苦に囚われず坦々と事を成す時に、変化は起きる。
そうではない自分好みの改変要求は、変えたいと望む側が「正しいと思うこと」に向かってグイーッと引っ張った、別の歪みとなる。
こうやって歪みを生み蛇行しながら人類はえっちらおっちら歩んで来た。
そのスタイルでの進行は不覚と言う課題が終了するのにしたがって、どんどん難しくなっている。
心に傷を負ったので今回の人生は見学しまーす
等の宣言は、より良い次回を約束したりはしないのだ。
有能に話を戻す。
憐憫に走らない代わりに、有能さを高めることに執心する者達も居る。
生きづらさに打ちひしがれて憐憫に走るのではなく、プレッシャーこそ生存競争に拍車がかかり燃えられる材料だと興奮する人々である。
生き抜く為に、秀でる。
生き残る為に、強くなる。
出来れば秀より優がいい。
優位に立ち、秀で、強くなるには有能さが求められる。
「天は二物を与えず」のイメージは既になく、天は二物も三物も割と気軽に与えると、多くの人々は感じているのではないだろうか。
それが現実である、とか。
単に人がエゴ持ちのまま、評価出来る“美点”だけを「物」と定め、その基準が限定的過ぎるからなのだが、その他多くの特質を「物の数ではない」と無視したまま、世の不平等さを感じている人は多い。
そして2021辺りでは、カードゲームで強い手札を沢山集める様に、その「物になる材料」を増やそうと頑張っている。
賢さ、コミュニケーション能力、好感を持たれる外見、経済力。
この辺りが揃った状態で人格的に優れ、更には何か目立った才能があれば申し分ない。
「有能な者は何をやらせても有能」は幻想で、IQだけ高く他のバランスが取れないと言う風にガタピシした場合もあることは知りつつも、その上で、「なるべく優位に立つのに有利な能力を多く開くこと」を求める傾向が強まっている。
「別にいいじゃん、とりあえずポジティブではある訳だし、
目を覚ます気がない人がそれなりに人生エンジョイしてるだけでしょ?」
勿論それぞれの自由意志があり、そして覚と不覚は善悪ではない。
いいじゃん、ではなく、善くも悪くもない。
憐憫と同じく有能ブームも、そこに酔わない者を発見する、虚空からの試しである。
わざわざ申し上げたのには理由がある。
有能さを求める動きの加速には、強迫観念じみた焦りがある。
焦る気持ちの渦は、濁流の様になって周囲を巻き込んで行く。
集中も何もあったものではなくなるので、知らぬ間に足を取られ一緒になって流される前に、そこに気づいておくことは必要なのだ。
何だか色々出来た方が、それも上手く出来た方がこれからの時代には有利な気がする。
努力も知恵も必要とする、不覚社会では誰も異を唱えようもない“立派な心構え”だが、せっつかれる感じがするなら、周りがどれだけ大きな集団となって加速していても、そこから出ることだ。
そのうねりは思いの外、傾いた場所へ人を運ぶ。
隠せど誇れど、爪は部分。
(2021/4/15)