《拡げる宝》
明日には9月となる。
今年の3分の2が過ぎ、残りは丁度4か月。
期間が狭まると言うことは、それだけ集中して何かし易い状態になったとも言える。
この4か月を活かし取り組むのをお勧めしたいことを、本日記事にて申し上げる。それは、
意識を向ける範囲を拡げること
人の意識は万遍なく弧を描く様に拡がって行っていることは稀である。
何だかんだで大概は職場や家庭、交遊関係等、所属する場所にかなりを割く。
生命体として、又、社会的存在として、成立するのに必要な情報を処理しておこうとする。
それらを済ませた残りで、「無くたって死にゃあしないが、あると楽しい」個人的な趣味嗜好に沿って意識を向けて、好みの情報を集める。
こんな具合で人それぞれに偏った意識の向け方をしているので、そこから漏れる「興味ない」「関心ない」「意識しない」部分がどうしても出て来る。
その光の当たらない部分を発見して頂くことが、意識範囲拡大の第一歩となる。
そうした部分が幾つも有る方も居られるだろう。
先ずは一つを発見されること。
それが出来ると「そう言えばあれも」と気づきが起きて、芋づる式にひっ絡まって出て来たりする。
発見したものについては、そこに意識を向けてみて気づきや学びが起きないか観察して見られること。
光の当たっていなかった部分は、よろしくない欠けではなく、進化材料の宝庫である。
宮司を名乗る“これ”も、先日その素晴らしさに感謝した。
覚めてからは「何だってこれを調べるのか」とビックリする様なことがしょっちゅう起こるし、そこに個人的な選り好みはないので、もう興味の偏りは今更無い気がしていたが、それでも“手薄な所”があったのだ。
そのことに様々なニュース記事の見出しをざっと見ていて、気がついた。
政治、経済、金融、IT、科学、文化、国際、国内、地域、どのジャンルにも意識は向かう。
俗にエンタメと呼ばれるものにも同じ。世間で量られる大小や軽重のジャッジはなく、とれでもなるべく隈なく丁寧に観察する。
しかし或るジャンルだけ、意識が向かう機会がほぼ無いことに気がついた。
スポーツ
出て来るのはせいぜいが「マー君て、何歳まで呼ばれるのだろう」とか、そうした興味。
イチロー等の呼称に年齢制限はないが、「マー君」呼びには引退や殿堂入りと言ったライフイベントが起こす変化で卒業が訪れる気がする。
「田中氏」や「マーさん」に変わるのか変わらないのか、変わるとしたらその切り替えポイントは何処なのか、これだと気がつくタイミングなんてものはなく、潮が引く様にじわじわと呼ばれることが減って行くのか。
これはもう「名前と存在」に関する興味であり、スポーツとは関係ない。
スポーツそのものに対する関心の無さについて、何となく理由は分かっていた。
戦争の代理みたいにもなっている現在の不覚スポーツでは、どうしたって進化の過程で限界が来る。
人の変容後にスポーツの進化も明らかとなる。
経済等の動きに見る、不覚表現で言う所の「WIN WIN」状態がスポーツでは起こり難い。
勝敗と言う生死が付いて回る因果がある。
エゴは生き死にについて兎角ヒステリックになりがちなので、そうした因果の昇華には、変容が普通になった環境が必要になる。
スポーツは、全体的な進化が目に見えて現れるのが最も遅いであろうジャンルなのだ。
だから、変容が起ころうとしているこの時期にはまだ、当然にこちらの意識も向かわない。
その様に理解していた。
しかし、それだけだろうか?
様々な媒体でニュースの見出しを眺めているが、中の一つにスポーツが最後に来るものがある。
その手前で見るのを止めて、タイトル含め全て省いていることに気がついて、問いが起こった。
スポーツそのものではなく、「スポーツに対するあまりの関心のなさ」に興味が湧いたのだ。
例外がなければ八百長なんて言葉も生まれないが、スポーツは大概、全力でする。
ルールに沿った、全力と全力のぶつかり合い。
我欲の歪みが含まれるとしても、全力であることそれ自体は弥栄と言える。
運転に集中していない車と車がぶつかったらそれは事故だが、自然な流れで惑星に隕石がぶつかったら何が起こるか。
タイミングとぶつかるものがそれぞれ全力で真価を発揮しての結果だと、生命を誕生させる機会をもたらし、多様ないのちを育むこともある。
丁度皆様も暮らすこの星の様に。
意識を集中してぶつかり合うスポーツにも、全力の輝きが見られても不思議はない。
そこに、未知の輝きは常に歓迎する、宮司を名乗る“これ”の関心が行かないのはなぜか。
「ルールに沿っての全力…、全力…、ルールに…」
そして、「あっ!」と気がついた。
スポーツに関心がなかったのじゃない。
人間が作るルールに関心がなかったのだ。
何故なら、これまで不覚社会において人間が作った様々なルールを観察し、それらをどうにも雑に感じて来たからである。
友好だの平和だの掲げながら、世に締結されて来た色んな条約が不細工じゃなかった試しがない。
弥栄は勿論のこと、細工ですら中途半端。
司法も抜け穴だらけであるし、立法と脱法のいたちごっこを見るにつけ、人間のルール周りへの関心は日々薄れ、いつの間にか失いかけていたのだろう。
しかし、特定の集団の利に傾かず、全体に敢えて制限をかけるスポーツのルールは、世にあるルールの中で最も洗練されたものじゃないのか。
サッカーで「大体11人。でもA国だけは、倍の人数出していい」とか、ならないのだ。
理由は単純、そんなことをしちゃつまらないから。
不覚スポーツは疑似戦争の役割も負わされているが、「圧倒的な武力行使やルール無視でも勝者こそ正義」の戦争と、スポーツの本質的な違いがここにある。
生活の中心を占める程に熱心なサッカーファンの親父でも、ワールドカップのニュースを観ながら「どんな手使っても勝ちてぇなぁ、俺の国だけ倍の人数出たらいいのによぅ」とか思わないだろう。
それは何処の国の親父でもそうだし、又、親父ではない者達についても同じである。
中立でこそ全力は発揮されることを、スポーツのルールはそれ自体で示している。
個々の不覚的意識の濁りも
がっちり受け止めて揺るがない、
部分の都合に偏らないルール。
この発見に歓喜し、一気にスポーツに対する興味が増した。
中立なルールを観察することで、「ルールとは何ぞや」と言う問いの答にまで昇華することも出来るからだ。
皆様もこの様にして、意識が光を当てていなかった部分を観察し、進化材料の宝庫を開けてみられること。
「何もなさそうだ」と視界の端に置いていたものがないかどうか見渡し、見つかったらゆっくりと向き直って相対し、根気よく観察してみられること。
それは必ずあなたの意識を拡げ、理解を深める宝となる。
宝の箱を開ける秋。
(2020/8/31)
本文がやたらと長くなったので意識を向ける範囲拡大の、実践に役立つふろく2つは木曜記事に移し、まとめてご覧頂きます。