《折れる心?》
不覚の人々が、延々繰り返す癖の一つに「口真似」がある。
誰かが放った一言が気に入ると、我も我もとこぞって言いつのる。
すっかり懐かしの、「あり得ない」とか。
この所ちらほら聞こえる、「もうダメだこの国」とか。
割と苦情・嘆き系が多い気がする。
「心が折れる」もそんな流行り言葉の一つで、スポーツ選手が盛んに口にし出して他の業界にも広まり、しまいには慣用句の一種みたいな扱いになった。
誰が何をどう言おうがご自由にではあるが、目にする度に「奇妙な表現だな」とは感じていた。
一丁やるかと観察してみて、あることに気づいた。
「心が折れる」と言うフレーズが流行り出すと同時に、
心が「折ることが可能な程に硬化」し出した。
心が、と言うより「心なるものに対する認識」がその様に変化した。
「折る」が流行り出す前の心を描いた言葉は、
心変わり、心映え、心模様、女心と秋の空。
心は空の様に色合いをころころと自在に変える、掴めそうで掴めない得体の知れないものだった。
心は、折れる様な硬いものではなかったのだ。
それを「折る」まで硬くする道のりには、「割れる」「破れる」と言う表現があった。
心=ハート説を採用した、「ガラスのハート」や「ハートブレイク」等の表現である。
傷つき易い→繊細で程度が高い
と言う奇妙な変換が起き、
ついには「敢えて硬化して、折れる」と言う荒技を繰り出す人類。
頑なに硬くした個人の思惑がへし折られた時に、「悲劇的な空気」を発生させることに成功。
最近の、「心が折れる」表現は「行いをしない・やめる」ことの免罪符として使われている。
一生懸命頑張ったけど、
限界ぎりぎりまで耐えたけど、
心を無残に破壊された?
さあ、どうだろう。
へし折られたのは、
穢れのない
真っ直ぐな心ではなく、
鼻っ柱ではなかったか。
もし、誠実に力を尽くしても
成せなかったら
分かり合えなかったら
それは
「成せないことや分かり合えないこともある・時もある」
と言う学びが出来ただけだ。
何かが折れる必要はないし、まして折られたまま保存される必要など、どこにあると言うのだろうか。
かつて心に対する認識が「ころころと変わる得体の知れないもの」だったのは、どの方向へも展開できる自由さを持っているから。
心を意識の中心に丸ごと納めて歩む時、初めて愛の中心として輝く。
そんな心を飴の様に捻じって棒状にして、折ったものを飾るなら、センスのない置物しか出来上がらない。
意識も、心も、魂も、御神体も、時間も、空間も、愛も、光も。
まだ本来の、真価を発揮せずに居る。
記録だけ積まれたまんま。
未知なる可能性が開かれる、愛による真価の発揮を体験しようと、人型生命体は物理次元にやって来ている。
流動し、点滅する、生ける空間として栄える為に。
頑なに硬くするなら、やがては罅割れるばかり。
流動し、点滅するいのちには必要のないことである。
やわらかに、弾んでみよう。
(2019/7/8)