《慢心の相違》
世の中の雲行きが怪しくなって来て、
多くの人が精神的や肉体的な支えを求めて右往左往する2019。
指導者になりそうな人を探したり、
安定した生活を求めて入籍したり、
夢を追いかけてみたり、
災害や事件や訃報に戦々恐々としてみたり。
「いや~、良くやるよ」
と、呆れと感心の半分ずつで眺めているが、その中に、目立たなくとも「進みたい」と言う意志の芽生えを見つけると、当たり前に嬉しくなる。
先日見つけたのが、
人が、用意された快感を混ぜ込んだ嘘よりも、無添加の真実を求めている。
と言う、お知らせ。
上記のテレビ番組にはかつて、遠方の祝祭に出かけて、その模様を直接観に行けない視聴者へ提供する人気企画があった。
不慣れな土地に入って行って祭の一体感を味わい、しかもそこで開催される競技に参加。
懸命に勝ちに行き、時には無様な、泥臭い姿も見せる。
未知の場所で味わう、全力を尽くしたことの喜び。
この企画が輝いていた頃、人々はそこに満ちる神がかった「真」に喝采した。
それが今の今では、「しょーもないヤラセ疑惑の火消しに躍起で、訳の分からない状況」に陥っている。
当宮記事でも以前、この番組に関する画像を挙げたことがあった。
祭り人達と宮司に「お調子者」としての共通を見出したからだが、あれが段取りしてその通りに作ったものであれば、大変な作業なのではないだろうか。
人が面白を好むのは、そこに天の恵みを見るからである。
天の恵み的な姿を段取りによって作るのは、おそらく大変に辛い動きだ。
宮司が関わって動く祭は、当宮の母神祭のみ。
その一環で神社や寺へも行ったりするが、「地元の人が参加するその土地の祭」だと申したことはない。
一体何でわざわざ「その土地の祭でございますよ」と偽るのかと首をひねって暫くして、
やっと、
不覚娯楽は興奮や感動を
一定量出荷しなければならない
ことを思い出した。
当宮の祭でも愉快なことや驚くことは起きるが、それはあくまで「只、起きただけ」であり、その内容も後から広くお知らせしたりとかはしない。
今年の開催も一度だけ知らせて半日経たずに締め切ったし、ご参加の方が何の気なしにお話したりするのを除いて、当日の内容が知られることはない。
告知なんかもう、明け方スウッと生えて、夕刻には枯れる珍しいキノコみたいである。
必要があって行われる、それだけ。
そこには興奮も感動も、前もって用意をして出荷する必要は全くないのだ。
祭とは本来、そうしたものだと認識しているので、偽祭に初めはピンと来なかった。
「偽ったのだとしたら、何でだったのだろうか?」と首を捻り、解けるまでに少しかかりもする訳である。
「悪いことは重なるもので」なんて不覚の言い回しがあるが、祭り人達の番組は快感と感動の出荷を意識する姿勢の不自然さが露見して人気が下落、加えて関わる人々の怪我を多発させている。
風評も楽屋裏も、あっちもこっちもガタピシして満身創痍となっているが、これは、
「慢心の動きと全一の流れには、胡麻化すことの出来ない相違がある」
と教えてくれているのだ。
かつては世界の果てまでも行ってみせようと言う、気概に満ちたキレッキレの真が澱んだ理由は、ぱっと見は
優位に慣れて仕事を予定調和でこなし始めた怠惰と慢心
が原因。
だが、もっと深く観ると
真に重要なことに気づきたいと意志する人々にとって、ベストな流れ
として起きていると分かる。
この相手に凹まされることに意味がある。
来週は16日(火)にポツンと更新。
(2019/7/11)