どうにも途中で切れずに、長くなりました。

 

あいすみませんが、飽きない程度に適当に区切るなどなさって頂き、皆様それぞれに良い塩梅でご覧下さい。

 

木曜は、なるたけあっさりと仕上げます。

 

では記事へ。


《愛を知る道》

 

本日は、知らない分からないと言う方々に、意識を向けて書いた。

 

既に愛の感覚が開けている方々は記事を通して「そうした人々も居る」ことを知り、「愛が分からない者に愛を伝えるアプローチとして自らが出来ることの中では、どんなものが挙げられるか」を、それぞれ探ってみて頂きたい。

 

これまで愛だと思っていたもの愛ではなかったと知った時、「では真のとは一体何か」となり、そちらを知りたくなるのは自然な動きである。

そこで人は二手に分かれて動き出す。

 


一つは「まず愛されることで愛を知ろうとする」動き。

もう一つが、「まず愛することで愛を知ろうとする」動き。

「愛されることで」派の理屈はこうである。

愛って何か知らないんだから、知らないものを表せる訳がない。

愛されるってこう言うことかと納得出来る、何かが起きてくれなくちゃ。

そうしたらきっと分かるはず」

 


果たしてそうだろうか?

生まれてこのかた一度も犬を見たことがない人の所に、説明なしに犬を連れて行っても「わぁ、犬だ」とはならず、「何ですこの獣?」となるだろう。

知らないものを示されて、それがそれだと一発で分かるなら苦労はしない。

「これ本当に犬?犬ってもっと、大きいんじゃない?それかもっと、格好いいはずだ」

等、疑おうとすればきりがない。

 


犬と認める為に、他のお墨付きを求める。

「これが犬なんですよ」
「わぁ、本当ですか」
「ええ、それは犬ですよ」
「確かに犬ですとも」

 


やんややんや。周囲から「これは犬」票が集まると、「そうか、犬か」となる。

ところが実は誰も犬を見たことがない地域での話で、そこへ最初に猿を犬と言って持ち込んだ人物が居たのだとしたら。

その人物も悪意なく、書かれていた説明を取り違えたり描いた絵があやふやだったりしただけで、毛むくじゃらの子供みたいな手先が器用で木登りが出来る動物が「犬」として広まった結果、さっきのやんややんやが起きていたら。

猿を抱っこして「犬って可愛いなあ」と言うシーンになっていても、不思議はないのだ。


にも、これと似た誤解が起きている。

「特別な誰かの為に命も投げ出すのが愛です」
「胸がキュンとなるのが愛です」
「他より優先させるのが愛です」
「親切にして気遣うのが愛です」


こうした情報が溢れ返り、愛を求める人はその情報に沿った期待を少なからず乗っけて、愛を乞うている。

そこでもうブレている。

気持ち良くさせて欲しい。
安心させて欲しい。
感激に咽び泣かせて欲しい。
楽しくして欲しい。

ブレにブレた結果、要求ばかりになり、そしてその要求には必ず相手が必要になる

 


相手の自由意志無視してでも、自分に愛を実感できる切っ掛けをくれと言うなら、お気づきの通りそれは全く愛のない要求である。

この虫のいい、だから通らない要求を、人類は結構繰り返して来た。

愛が分からない人が愛を乞う時、「これが愛?」とあたりをつけるポイントがある。

「大事にされること」

 

そして


「見捨てられないこと」

 

である。

 


大事にされると愛されている気がする」に走る人々は大事(だいじ)にされてる感が欲しいあまりに、健康上や経済上の危機と言った形で人生に不覚社会が大事(おおごと)と呼ぶような状態を起こす。

だが、大事は愛とは特に関係がない。

見捨てられないなら愛されているだろう」とそちらに走る人々も大事を作ろうとするが、それは何があっても自分が許されるかを測る為のものであるので、不運より失態と呼べる大事が多い。

 


約束を破っても見捨てない?
浮気をしても見捨てない?
先に進めず堂々巡りでも見捨てない?


こうした様々な試しを、愛して欲しい相手に放つ。

だが、見捨ても愛とは特に関係がない。

愛されることで愛を知ろうとする動きは、本道ではない所無数のエゴが掘り続ける作業。

 


これによりぱっと見は道の様なものが出来ている。

大勢の人が踏み固めた為に広くてなだらかで、いかにも進むのが楽そうに見える。

だが進めば、程なく行き止まりであると分かる。

かつて辿り着いた大勢がそうした様に、己の限界を感じながら諦めきれずに多少の土を引っ掻いて少し掘り進み、そこで終わりとなる。

「愛されたい」の横穴はそうやって、拡大して来た。


愛することで愛を知ろうとする動きに、他への要求はない。

只、清々しく自らの「こうしよう」があるだけ。

そこは人が一人ギリギリで入れる位の細い道。

舗装もされていないし、草をかき分けて進むこともある。

だが紛れもなく愛を知る道なのだ。

 


愛することでしか、

は知れないし分からない。

外に見えることに対し、人は幾らでも難癖をつけられる。

だが内側から起きる「それがそれだ」となる、言葉を失う程の実感は、難癖のつけようがない。

愛することで愛を知ろう決める時、それは「くれなきゃあげられない」を卒業する時である。

それでも愛すること「したことがないから分からない」と躊躇う方よ。

あなたは呼吸を、誰かから習っただろうか?

習わずとも、知れるものあり。

(2019/10/21)