ふっくら炊けて、量が増えました。

 

あいすみませんが、小分けにして丁度にするか、休日の合間に手があかれた折にまとめるなどされて、良く噛んでお召し上がり下さい。

 

では記事へ。

 

 

《愛の滋養》

 

「涙が止まらない」


 平成から流行りだした言い回しで、およその意味は「最大級に悲しい」

実際そんな状態になった人が居たら、同情や共感じゃなく、十中八九すぐ医者にかかることを勧められるだろう。

この涙は、目に見えない溢れる想いを意味している。


 「もう、こんなんなっちゃってるんだから!」


を、示したい思いがあって表現が盛られた、と言う点では「血涙」に似ている。

実際に血の色をした涙が出て来たら、止まらない場合と同じく医者を勧められる。

もしくは不覚の奇跡認定をされて、後代には観光名所にでもなるだろう。

 


止まらない涙と言う表現を、更に言えば止まらない涙を、誇る又は訴えると言う動きを、ずっと不思議に感じていた。

涙というのは、一人でも流すことが可能であるし、それを誰かに知らせる必要も特にない

知らせたら、出が良くなった。


 と言う報告は、聞いたことがない。

一体何故、涙の周知が必要なのか。

本日記事にて書かせて頂くことにしたのは、その件について一つ気づきが起きたことで、理解が深まったからである。

人型生命体内なる虚空からの天意を、として発揮することが出来る。

これが「天意からの愛」である。

 


不覚全盛時代においても愛の交流は、全開ではないにせよ「ちょろちょろとは」行われて来た。

肉親等による情を含んだ慈愛は、その代表と言える。

 

前にもどこかで申し上げたが、

「はじめちょろちょろ 中ぱっぱ」


とは、本当に良く言ったもの。

火でご飯を炊く時のコツを示したフレーズであり、初めはたっぷりの温情を含んだ柔らかな火で加熱し、変容に際しては全てを溶かす昇華ぱっぱと必要であることが表されている。

「赤子泣いてもふた取るな」

 


不覚の分割意識が、エゴを満足させるご褒美を欲しがって泣いたとしても、途中で蓋を取って熱を逃せば、変容と言うふっくらご飯は完成しない。

涙から随分と話が逸れた様に見えるが、涙の周知を必要とする人々、特に、機会あるごとに繰り返し、涙が出たことはなるべく報告をしたくなる人々のことを、これまで「単にそういう時流に乗っかった人々」と認識していた。

(なみだ流行(ばや)の時代を利用して行われる、ささやかな自己顕示だと見ていたのだ。

それも間違いではないが、それだけではないことに気がついた。

涙を誇ったり訴えたくなる人々の中には、「はじめちょろちょろ」である、情を含んだ慈愛足りていない人々が居る。

水を吸っていない米。


不覚者が切っ掛けを見つけてした時、

意識が情動で興奮出来たことに満足し、それによって「満たされた」感覚が起きる。

同時に、

落涙で凝り固まった制限が緩んで流れ、それによって「排出された」感覚も起きる。

 


「涙が出ました」と言う時、


意識の中に慈愛に飢えた幼子を抱える人にとっては、

「マンマおいちい」

「チッチ出た~」

 


の、嬉しさが一緒になって訪れている。

それは、報告したくもなるだろう。

他の端末に泣いたと報告している風に見えて、その実は見えざる虚空である全母に放っている。

「おいしいよ!」「気持ちいいよ!」「もっともっと頂戴!」


 「神様」とか「仏様」とか「運命」と認識したりもする“その何か”に向かって、感想とリクエストを混ぜたものを訴え続ける。

繰り返し、終いには訴え中毒になる。

温情が不足した低栄養状態で常に飢えていたのなら、涙の旨味に飛びついても不思議はない。

感動する物語や、衝撃的なニュース。

落涙出来る「ネタ」は、肉親等に代表される大人達からの情を含んだ慈愛が不足した“低栄養の子供”が命を繋ぐ、代用食の役割を果たしている。

家で滋養ある食事が出て来ない放置子が、店で買う弁当や菓子。

 


と書けば、ご想像頂けるだろうか。

当たり前だが当宮記事では「与えられなくて可哀想ね」などと申し上げたりはしない。

何故、低栄養状態の端末が増えているのか。

真の慈愛を知り、発揮する時期が来たから。

真の慈愛は肉親等の温情を超えた、あまねく行き渡る滋養


それは誰かから貰おうと頑張ったり貰えないと嘆くのではなく、まず自らで振る舞うものだ。

既に、部分から部分へ注がれるだけに留まる、浅い愛の時代”は過ぎている。

今回、人生を低栄養ルートで歩んで来られた方も、別のかたちの命であった時は温情をたっぷりと摂取済

既に人類全体で足りてる体験を

 

「今回もたっぷり温情体験したい。出来なかったら、先へなんて進まないもんね!」

 

 

と、座り込んでも、どうしようもない。

お望みのメニューを根負けしたシェフが作ってくれる訳ではないし、自らで慈愛発揮し自他を超えて振る舞えば、

 

「実は温情体験が足りていなかったこともギフトだった」

 

と、知れる。

寂しさや悲しさ怒りや惨めさ虚空へ返却するより、世間並みに世間より・お幸せ」の返却の方が、ずっと難しいからである。

 

この世で最も抜け出し辛い泥沼は、微温湯(ぬるまゆ)~とぴあ。

(2019/7/25)