《愛で観る》
本日はみどりの日。
色の一種である以外に、「みどり」だけで植物一般、ひいては自然を意味する。
みどりの日の「みどり」も、色の緑でなく植物や自然を意味している。
先日「あお」と「みどり」について意識を向ける機会があったのだが、この二つは良く似た扱いをされる。
世界各国を見渡すと、BlueとGreenについて認識の境界は結構曖昧。
只、日本で使われる漢字に絞ってみた時には青の方が、若々しい、新鮮なものに付けられることが多い。
青菜、青山、青二才。
青汁だって実際はどっからどう見ても緑汁、なのに青を名乗るのは新鮮さをアピールしているからである。
「新緑」はあっても「新青」の表現はないことからも「青はそれそのものでnew」。
この差が面白く、両方の字の成り立ちも観察してみて、ますます味わい深いことが分かった。
滅多に開かない左側に書く情報を借りて来るかたちになり、以前お伝えしたこともあるかも知れないが、
青は「生」を表す上の部分に、「井戸の清水」を表す月が下に来る。この月は、元は円だったと言う。
緑は「色」を表す左側に、「表面を剥ぎ取って左右に散らす動き」を表す右側が並んで出来ている。
この剥がす対象は青竹だそうである。
竹の表皮を剥ぐことで散って現れる色が緑、であれば細かくなっても
あくまで「固体の」、そして「表面」の存在である
と言うこと。
「そう言えば、青竹はあっても緑竹って聞いたことないな」
と、調べてみたら宮司がもの知らずなだけで、ちゃんとあった。
但し緑色の竹としては、字が違う「みどり」である翠を使った翠竹の類義語として発見出来たのみ。
緑竹と言うと世間では、竹より「タケノコ」を意味しているらしい。
基本、茶色に見える。
緑って何だろう、となった後、言ってみれば“若過ぎる竹”がタケノコであり、これも色でなく若さを表しているのかと気づいた。
尤も、タケノコも剥かないと食べられないので、やはり緑の本質は若さより「表を剥いで分ける」所にあるのかも知れない。
奥から滾々と湧き出る水として示される、青とは全く違う。
ちなみに赤は、燃える「火」から来ている。
赤と青で一対にするとしっくり来るのは、成る程なのだ。
柳緑花紅とか言ったりする様に、緑には紅が良く一緒になる。
表に現れて輝き、そして消えて行く、みどり。
緑も紅も、火と水の働きで育まれる、言わば「子達」である。
自然としての「みどり」も太陽から日々受け取る光と熱の「火」と、天地を巡る「水」とで育まれる。
自然に親しもうと言う「みどりの日」だが本年は、大自然と触れ合って楽しくなってしまうと、ついでに人とも触れ合ってしまいがちなことから、遠出してみどりを満喫することが余り推奨されていない。
逆に言えば、「どのみどりにするか迷っちゃう」とならずに、身近なみどりを丁寧に観察するのに、集中出来る。
庭の木でも、窓から見える公園でも、お部屋の鉢植えでも、何でも結構。
彼らをじっくり観察して、どこかに変化を発見出来ないか探してみられることをお勧めする。
まだ見ぬみどりを祝って、種蒔きをしてみるのも面白い。
宮司も何の気なしに植えて観察している植物達があり、中のメンバーに気づくと大層伸びているのがあって、ビックリしている。
毎日見ているはずなのに「いやぁ、大きくなったな!」と、まるで親戚のおじさんみたいな気になる。
伸びたり散ったりして、どんどん姿を切り替える「みどり」達を観察していると、緑の字の中に示された「表で起きる細かく散り分かれる動き」と言うのは、改めて凄いセンスだなと感心する。
潔い自然の移り変わりを、奥から滾々と湧き出る絶え間ない愛を送る「あお」、つまり意識としての自覚のもとに観察する。
有限は無限から観察されて
そこで初めて、活きて来る。
植物は人間の様に賑やかな音で、やいのやいの言って来ない。
伝えて来るにしても、今この瞬間を生きていることの歓びが主である。
その微かでシンプルな“声”を聴き、更にそれをそのまま「自他を超えた歓びとして感じられるどうか」を確かめて見られることも、大切な学びとなる。
当宮記事では、不覚やエゴを示す色を引き受けてくれている緑。
実際、緑は不覚に覆われてその美しさが最も味わわれていない色でもある。
「十分、綺麗に見えますけど」
と、なられた方。もっとなのだ。
意識が眠った状態の時でさえ結構綺麗に見えていたとして、それと比較にならない程見事である。
不覚を卒業し、意識を酔わせて来たエゴについても「だからこそ出来た体験がある」と、その有難さに感謝出来る時。
その者は、緑の真なる美しさを“発見”するだろう。
観て送る、愛の慈雨。
(2020/5/4)