あれこれ書いたら、何やら長くなりました。

 

誠にあいすみませんが、飽きない程度に適当な所で区切る等なさって頂くか、週末の手の空かれた折にでもまとめて頂き、それぞれ良い塩梅になさってご覧下さい。

 

では記事へ。

 

 

《失言フィーバー》

 

これまで人類が自由と見なしていた好き勝手が出来なくなり、社会のあちこちで鬱憤が溜まり出しているこの頃。

 

 

政治家や芸能人、文化人等「注目を集める機会の多い人々」が放った一言が、失言として集中砲火を浴びることも増えて来た。

確かに平時には聞かれない様な、突飛な発言もある。

だからこそ、隠していた素顔が現れた感じがして、出て来たその素顔ががっかりする様なものであった時に、尚のこと叩きたくなるのだろう。

日頃の鬱憤を晴らすサンドバッグが欲しい、と言う側面もある。

 

 

ストレスに対し、可愛い動物や小さな人の動画等から受け取れる、和む力でどうにかしようとする向きもある。

只それでは、緊急事態での鬱憤を晴らすには刺激足らないのかも知れないなと、失言に対する大きな盛り上がりを見ていて気がついた。

獲物を火だるまにしてコロナの神に供物として捧げ、終息願いでもしてるのだろうか。

 


だとしたら、あんまり古代から変わっていない意識状態である。

ニュースを眺めていて、失言したとされる人物を、天意からの愛集中して観察してみることに決めた。

 

すると、実に様々な気づきがあった。

男が女に対して、俗に言う“助平”な面を出すことは

 

「男ってのは、そういう生き物なんだよ」

 

 

とか言う、雑な決まり文句と共に、割合に世間で知られた概念である。


いい気なもんだと呆れられる様な、呑気で浮かれたノリがそこにはある。

そのノリをこの緊迫した当節に使って、ざっと要約すると

「事態が収束に向かったら、経済的な事情により、

 

平時では助平産業に組み込まれたりしない様な人材も、

 

短期間は手の届く所にやって来る。

 

 

そのお得な機会にお金を使おう」

 

的な、ある意味「仮のご褒美をチラつかせて自粛を誘う」発言をラジオにてなさった芸人の方がおられた。

ご本人の認識としては、こうした振る舞いは自分の「キャラの内」であり、ひいては「芸の内」でもあった様だが、世間はそう取らなかった。

性搾取とか、持てる者から持たざる者への差別であるとか、それはもう火の手の勢いは凄まじく、本人や相方も加わって総出の火消しが試みられる事態に。

 

 

燻りに至るまで、どの位かかるのかは知らないが、露出で人心を掴む職業では、影響力は露出と共に当たり前にどんどん薄れて行く

鎮火した時点で社会における重要性がどの程度保たれているのかはさっぱり分からないので、うっかり火だるまにもなれないのが最近の有名人である。

火を放たれないように息を殺してやり過ごす閉塞感と、目立っていないと忘れられてしまうかも知れない恐怖感から、千々に乱れる心を抱えて混乱する人々も居るだろう。

 

男に限ったことでもない。

 

騒ぎと渦中の人物をから観察していて、この発言が出た背景が次第に見えて来た。

退屈し、沈んだ気分で、先の見通しも立たない日々に不満を溜めている聴衆。

彼らに向けて何か元気づけの出来る様な、

 

しかもいかにも自分らしい発言

 

出来ればコロナを逆手にとって笑いに変える様な発言をして、盛り上げることが出来れば

 

「やはり○○さん有り」

 

存在感を示し影響力も保たれるのでは、の目論見

良かれもあるし、欲しがりもある。単に呑気で浮かれていたからではない。

 

 

エゴによる色んな思惑が混ざり合った背景は、なかなか興味深かった。


加えて、あることに気がついた

宮司は芸人になったことも目指したこともないが、あの職業には頭の回転や感受性、瞬発力、柔軟さ、実に様々な能力が同時に求められることは分かる。

力の多くは使っている間に消耗し、次第に鈍くなって衰える

世に言う「盛りを過ぎた」状態が、やって来る訳である。

 

 

その辺りはスポーツ選手にも似ている。

衰えを感じつつどうにか力を見せようと振り回して見せた結果、すっぽ抜ける暴投が生まれたと言う、不覚の分割意識にとっては少々やるせない事情もこの騒動には隠れている。

言ってしまえば、本人に勢いがあり十分に面白かったら必要のない場面だったのだ。

無神経とか非常識とかなじられるより、こっちの方がきついかも知れない。

感性の“お笑い筋”が弱って、腰の曲がり始めた人物の丸まった背中が浮かび、慈しみ内から湧いてそっと感謝手を合わせた

 

 

古い仕事をそれはそれで果たして下さったことと、

観察させて頂けたことへの感謝である。

ついでに申し上げると、その方は鬱病苦しむ期間を経て仕事に復帰した体験があるそうだ。

つまり痛み苦しみを知る人物」

それが他者の苦痛を下敷きにした自身の得にはしゃげるなら「人は痛みや苦しみを知って強く優しくなれる」とは、別に限らないことが分かる。

芸人の悲哀も含め、不覚社会常識理想に限界の生じていることを観察により実感出来た。

 

これにも感謝を捧げたい。


「はしゃがず意識をお静かに」

 

 

の期間を活かしておられるグッドセンスな皆様。


火の手が大きく上がっている所を発見したら、責め立てられる失言者を、天意からの愛観察してみて頂きたい。

中立に観察出来る程、思いもよらぬ発見が出て来る。

もし「許せない」と感じる点がその人物に対してあれば、それはご自身の偏り知る大切なヒントとなる。

 

燃やせばどうにかなるもんでもない。

(2020/5/7)