あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
《和する時代》
年末にお届けした、ふろくのダーツを早速やってみた宮司。
これまで、あまり意識を向けたことのない地域に当たった。
「と言うか、東なの?西なの?」
見ると大体、近畿レゴに組み込まれていることが多い。
只、丁度東日本と西日本の境目辺りに位置して、文化的にも東西の特色が入り混じっている。
そこから、地元の人々は日本を「東日本・西日本・うちの県」の三点で構成されていると認識しているらしいとか、本気とも冗談ともつかない話も伝わっている。
確かに「そこならでは」の強固な特別感がある地域で、歴史と伝統に支えられた気位なら京都が群抜きだが、神話と伝説に支えられた気位なら、そこんちはまさに別格の雰囲気がある。
だから、これまであまり取り上げる気にもならなかったし、関心もなかったのだ。
スピリチュアルに傾倒し、聖なるものに目がないと言う人々は、47分の1の確率で、ここんちが当たったらお喜びになったり、得意になられるのじゃないだろうか。
そうしたファンのみんなにわっしょいわっしょい胴上げされて、彼の地は基本構われっぱなしなので、こっちとしては放っといて構わんだろうと踏んでいた。
全体の活性化に注力しているので、どちらかと言えば忌み嫌われたりランキング圏外と言った扱いで、感謝を送られていない土地の方に関心があったのだ。
今回も始めは、「別にこの県=伊勢じゃないしな。聖なるイメージ以外の様々な面があって当たり前だ、それを観に行こう!」となった。
そう言うことでしたし。
ところがこの度は、聖なる扱いの場所も併せて注目する必要があるらしい。
海老の方に興味があっても、そこは一旦置けと言われた。
お預かりしまーす。
「チェッ」となったが、その意味を説明されて「確かにそれはされて来なかったろうな。で、する奴も差し当たって居らんわな」と納得した。
不覚者の多くは聖と俗を、優と劣に変換する癖を持っている。
その癖を持ったまま目にする聖地は、例えば富士山の頂上、そこから現れる太陽の様な、「特別に大事な、そして優れたポイント」になる。
これはものを「かたち重視」で捉えていないと出来ないことだ。
ところが目が覚めて優劣が消え、全体が「大きな一つの命が点滅している」状態と分かり始めると「かたち」と同時進行で「質」の輝きを観る様になる。
例えば、この餅の、どの部分が高貴で、どの部分が低俗かや、どの部分が旨くて、どの部分が不味いか等と分けられはしない。
かたちは、あっていけないと言うものではない。
只、覚めると、かたちとしてどの様に表れても、同時に質においては「全体おもち感覚」で世界を観察する様になる。
この中立でシンプルな普く通じる感覚で、人々から崇められ特別感で固められている土地を観察すること。
そしてそこに、他と変わらない愛を送ること。
聖地でも僻地でもいのちとしての輝きは同じである。そして継ぎ目がなく常に流動している。
THE 聖地みたいな場所にこそ
「愛してるよ、普通に」
のアプローチが必要なのだそうだ。
それと、ウワモノが建つ前から在る、土地のエネルギーとコンタクトすることも求められた。
「やること、多いな」
2020も、この件に限らず色んなことをする模様。
そりゃそうで、全体一つに和する時代が来ていることで陣痛もまた大きくなっている。
出来ることは惜しみなくする。
皆様もそれぞれに、愛で行動する年となさって頂ければ、全母たる虚空は必ず又、それに天意で応える。
行動の年は、天意と愛との「呼応の年」でもあるのだ。
中を空にし、晴れやかに。
(2020/1/3)