《創作の妙》
『雪の女王』について書かせて頂く木曜記事が、雪だるま式に膨れ上がってえらいボリュームになったこともあり、本日はなるたけあっさりと、軽めに書かせて頂く。
『雪の女王』以外に、『人魚姫』『みにくいアヒルの子』『マッチ売りの少女』等、世に広く知られる童話を幾つも生み出したハンス・クリスチャン・アンデルセン。
当宮でも『みにくいアヒルの子』以外は、記事のテーマになったことがある。
意外や高いアンデルセン率。
意外、と書いたのは、グリムやイソップの様な、人から人に受け継がれる民話から採取された話ではなく、一人の男が書いた創作童話であるから。
不覚者一人の手によって書かれたものは大抵、書き手の都合に傾く。
一見、アンデルセンもそうしている様に見える。
ところが、よくよく観察してみたら違っていた。
彼や彼の親が貧しさの中で育ったとは以前他の記事に書いたことがあるが、他の要素についてはあまり掘り下げなかった。
その人生を覗いてみると、
貧困、偏屈、虚言癖、極度の心配性、発狂への恐怖、容姿へのコンプレックス。
出るわ出るわ。生涯独身で、失恋率100%の男であったらしい。
逆に大記録じゃないだろうか。
結構打席に立ったらしいのに、一度も塁に出ていないそうである。
彼の性格にまつわる話をまとめると相当情報過多だし特徴的。
「すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話にすぎない」なんて言葉もアンデルセンは残しているが、あんたの人生は一体どんな童話なのだと尋ねたい位、奇妙さに満ちた個性を持っている。
その際立った個性で「私が書いたものは、ほとんどが私自身の姿であり、登場人物はすべて私の人生から生まれたものです」と全力で、姿形を色んなキャラクターに変えた「俺の俺による…」自分絵巻を作り上げている。
はずなのに。
一番奇妙なのは、そんな“濃い”男が自己投影して書いた童話が、個の人物像から自由にはみ出して、読む側が「ああ、これは自分だ!」と感じたり「カイやガーダはどこかに居るんだ!」とありありとイメージしたり出来る点である。
『雪の女王』を読んでも、『人魚姫』やそれ以外を読んでも、イメージの中にアンデルセン個人の姿が割り込まない。
それはおそらく、「俺の俺による」創作ではあっても「俺の為の」ではなかったからだろう。
失恋率100%を支える大きな理由が、「惚れた女に相当量の分厚い自分史をラブレターとして贈る癖」だった位、筋金入りの「自分マニア」ではあったのに、こと童話に関しては大事な自分像さえも目的を叶える為に、自分以外のものへ向けて差し出している。
目的とは、必要な深いメッセージを書き表すこと。
差し出す先は、勿論虚空である。
覚めてからこっち、不覚社会のあちこちで日々産出され続ける創作物語は大体が“手癖が強く目新しいもののない冗談”みたいになっている。
物語の為の物語ではなく、「俺の為の」「私の為の」創作だからだ。
ぱっと見「みんなの為の」雰囲気で覆っても「俺がみんなに与える為の」であることが丸見えだと、書き手の都合に傾いて、深いメッセージはてんで含まれない。
アンデルセンの生きた時代が「エゴ持ちが創作によって自分臭さから解放され得る時代」なら、只今は「自分臭をどれだけ強められるかを創作で試す時代」から「意識的に個を超えることが可能な者が創作し始める時代」への移行期と言える。
未だそうした創作を発見していないが、果たしてどこで出会えるだろうかと、特に予想したりはしないがほんのりと楽しみにしている。
そろそろ出たって不思議ない。
(2021/2/1)