《冬来りなば》
本日は立冬。
暦の上ではここから立春に至るまでが「冬」となるが、外では清々しい秋晴れの空を見ることが出来る。
冬の気配が訪れた位が、立冬の実際である。
平素、その時々に集中してあまり先のことには意識が向かわない宮司。
だが、この冬は何でかその入口から出口までも、カレンダーを使って秋の内に眺めていた。
そしてビックリした。
「短っ!」
本来は長いも短いもないのだが、大体3ヶ月と言う暦上の冬を、今回は何だかとても短く感じる。
それは、この冬しようとしていることが、その期間にどうやって押し込んだらいいものやらとなる位、どっさりだからでもあるし、
改めて冬を眺めてみて、とても行事の多い季節だと気がついたからでもある。
何せ年の終わりと始まりが挟まっている。
「冬来りなば春遠からじ」
とは、英国の詩人シェリーの『西風の賦』の一節から生まれた「苦境を耐え抜いた先に、幸福・繁栄の時期を迎えられる」ことの例え。
文字通りの春を待つ気持ちの表現としても用いられるし、「辛いことはいつまでも続かないからね」と励ましの意味でも使われる。
不覚の人々は厳しいものが好きではない。
寒さは熱さと共に、厳しさに寄せて扱われ、冬は将軍がやって来ることになっている。
春には女神がやって来る。
緩めて貰って、優しくして貰って、心地よくして貰うのが大好きな人々からは不人気の冬。
貰おうとせず自ら楽しんで行こうとする力溢れる人々にとって、冬はとても面白い季節だ。
「冬来りなば…」の例えを使う人々の多くは、おめでたい春がやって来るまでの前座みたいに冬を扱っているが、冬には冬の、冬にしかない輝かしさがある。
輝かしいし、賑々しく、温かい。
あいつもあいつもあいつも居るし、
出てすぐの所に、あいつまで居る。
つい行事をあいつ呼ばわりしたが、それぞれに面白味を持った素敵な行事達である。
冬と言う字には「蓄える」の意味もある。
秋の実りを感謝して十分に味わったら、その力を蓄えて、春に花咲くまでに必要な進化をしておく。
進化は深化でもあり、それには内側深くに入って行き静寂の中で全一感覚を磨く必要がある。
行事もあるし、独り深めることも必要だし、用事も満載。
「短っ!」となるのも、お分かり頂けるのではないだろうか。
何から見たって変わらない。
こうなると「冬来りなば…」の響き方も違って来る。
「気合い入れろ!」
と、将軍に発破をかけられた感がある。
最初は余りに短い気配に「うわっ!」となったが、止まない上からの無茶振りに慣れて来たお陰で「へい、わっかりやしたー」となり、今の今は「よっしゃ、やるか」に変わった。
どの道、やらないという選択肢はないのである。
宮司を名乗る“これ”に限ったことではなく、皆様お一人お一人にとっても重要な機会となる。
この冬をこれまでの冬の延長めいたノリで流さずに、唯一無二の冬として全力投球なさること。
多少腕白気味にであっても、逞しく育つ冬になさって頂ければ、必要に応じて力を発揮し大盤振る舞い出来る、十分な蓄えが成される。
遠くないので集中しよう。
(2019/11/8)