《今に触れる》
不覚人類の五感。
その中で目下、群を抜く頻度で活動しているのが視覚である。
花形部署とされている脳を支える手足となって働くのが、実際の手足ではなく目だった場合、当たり前に他の部署との連携がゴチャついてくる。
手応えや足がかりをアイコンタクトで得ようとしたり、欲しい情報を嗅ぎまわるのが鼻でなく、血眼だったりする。
目くばせしたり、目くじら立てたり、目は口ほどにものを言う。
離れた場所も見られるので、目標を立てるなど今の今以外の場所にも目は出張する。
目の持つこのフレキシブルな能力が、意識が今に居られずふわふわと「あくがれいづる」ことに通じている。
そんなヒートアップ気味の目達に代わって、人を「今」に居させてくれる頼もしい支え手が、手と足。
中でも先端である手足の指は、今この瞬間を味わうのに最適な働きをする。
ものの見方感じ方は一人一人違うと言っても、例えば「服」と「食器」の手触りが、「大多数の人が感じるのとは逆」になる方は、おられないのではないだろうか。
ある人にとってはどっしりとして頼もしい感触の椅子が、
ある人にとっては、畳んで仕舞える位柔らかい、
とは、ならない。
この共通性があるから、みんなで楽しく物理次元を味わえるのだ。
全てが光の点滅で出来ているとは言え、集まった人達が座って落ち着こうとしていた椅子を、片っ端からくちゃくちゃに折り畳む人が現れないのは、こうした一定の秩序を全母である虚空が設定しているからである。
以前に、肌が荒れた手に塗る軟膏の広告で、面白いものを見た。
手で出来る様々なことを写真で示した、「手で体験することの楽しさ」を全面に出したCMである。
手に集中すると確実に今に居られる、とまでは書かれていなかったが、語らずともそれが自然に伝わる素敵な広告だった。
手が荒れるのを待たなくとも、普段の生活でその有難みは感じられる。
手も足も意識して、動かすこと。
殊に、指で直に触れるものの感触を良く味わうこと。
指の腹一つ一つに、「腑に落とす」の腑が入っている。
10個の小さなお腹で、世界を触ってみる。
すると、目で見るだけの時とは全く違う肌理細かさで、世界の方でも触れ返してくる。
足先のもう10個は、いつも素の状態とは中々行かない。
大抵は靴の中にあるので、そこから歩く場所の感触が多少掴めることを頼りに、感触の変化を味わってみる。
この変化が、「進んでいる」と言う実感となる。
人型生命体は端末なので、末端まで愛を行き渡らせると、とても活き活きする。
何よりも、今に居続けることが全体との調和を促す。
この秋は、御神体への奥さん孝行も兼ねて、末端に光をあててみることをお勧めする。
味わって、今に居る。
(2019/9/5)