《チャンバラ中毒》
“自分のものさしで生きると、他人の価値観に振り回されない”
“自分のものさしで、他人を測らない”
“自分のものさしを持つ、相手のものさしを知る”
物差しや定規の成り立ちについて調べていて、こうした言葉達に行き当った。
何だってこんな奇妙なことを?
だがこれらを含む文の、どれを読んでも結構「マトモなことを教え諭す雰囲気」で書かれている。
ますます謎めいている。
「自分用の、ものさし?」
それぞれ違う目盛を持つ、マイものさしを使う風習ってどっから生まれたのか。
遡ってみていたら、天の御量と言われるものさしを見つけた。
あまのみはかりと読み、「高天原の尺度」「天上界で定めた物差し」を意味するそうである。
物差しって長さを測るものと認識していたが、「御量」と重さを量る秤みたいに表すのは面白い。
長さは距離の量、だからだろうか。
人間は分断された意識で生きている為、天と地、御上と下々の様に、世界を何かと分けて捉えがちである。
天の御量は天のモノ。
天の計らいは地に暮らす人のあずかり知らぬものであるとし、地には地の“物差し”を求めたのだろうことは分かる。
だが、天の御量は高天原全体における尺度であり、天上界共通のものとして定めた物差しであるそうなので、一柱の神が個別的に作るものではないのは明らかだ。
人は神に、マイものさしを持たせない。
天と同じく地においても、示されている尺やメートルが実際バラッバラであれば、それはもう物差しではないのだ。
おらが尺や、おらがメートルは存在し得ない。
だが、それが可能になった感じで使われているのが「自分のものさし」「他人のものさし」と言う表現である。
ものさしとはどう言うものか、何の為に出来たものなのか、この両方を分かっていない者でないと言えないことの様な気がする。
そうした人々も自分の見方や力で揺るがすことの出来ない、尺やメートルのある世界を平気の平左で生きている。
どう言うことなのだろう。
謎だらけだと首を捻っていてふと、ものさしでチャンバラごっこをする子供達のビジョンが来て「あ、そうか!」と瞬時に理解した。
測るより、叩く方が重要。
強さを量る為の、我の御量である。
教室の後方で、授業そっちのけでふざけている昭和の腕白坊主みたいな姿が見えて、ずっとこんなことやってんだなぁと頷いた。
どっちのものさしが頑丈か、勝負しようじゃんと言う遊びだったのか。
「自分のものさしは自分の手元に置いて、静かにしてくださーい」と言いながら、すましている教室の優等生も、マイものさしの綺麗な使い方で勝ちに行こうとしている。
戦わずして勝つと言うやつで、暴れん坊に理想をかざすのは、優等生が良くする叩き方である。
やっぱり測るより、叩く方が重要。
上のゲームは定規戦争と呼ばれるものだそうで、定規もぶつけ合いで勝ち負けを決めるのに使われている。
ちなみに物差しは長さを測ること、定規は線を引くことを主たる目的として作られており、定規の目盛はついでに付いている模様。
マイものさしは、目盛の状態が変わる。
割と頻繁に変わるものさしもあるし、一旦刻まれたら中々変わらないものさしもある。
どちらにせよ目盛の状態が個の都合で変わるものを、「物差し」とは呼べない。
マイものさし≠物差し
物差しとは物理次元において誰にも変えることの出来ない差を測るものである。
意識が独自の見解で推し量ろうとするはかりごとに使うマイものさしは、使う者の定める基準が採用される「者差し」なのだ。
者差しで叩き合うチャンチャンバラバラには興奮が伴い、中毒性がある。
抜け出し難い状態になる場合もあるだろう。
だが、マイものさしの頑丈さや振る腕の力が無限に続く者は居ないし、見渡す限りの者差しを叩き折っても全てに勝ち切れるものでもない。
チャンバラ中毒のまま儚い者差し遊びに終始するか、
ものさしってそもそも何だったかを認めて物理次元は全体一つであることを理解するか。
それにより、見えるものも行く道も全く変わって来る。
我ではかりきれぬ世界。
(2021/6/14)