《おかあさん生活》
かつてした体験に意識を向けることがあるが、その“再現V”みたいなものに宮司を名乗る“これ”がそのまま登場することは、あまりない。
あまりと言うか、殆どない。
イメージ上で
「そういえばあの時…」
とか言っているのは、たまたま直前まで観ていた映像に出ていた役者だったり、CMや広告で見知った人物だったり。
有名無名関係なく、職業も性別も関係なく、再現Vの主演は実に適当に採用される。
割合におっさんが多い気がするが、
宮司の自分像への認識は、只今この位に自在で気軽なものとなっている。
「私たるもの」が軽くなる一方で、「いのちたる歓び」は深まっている。
動植物、人型生命体、車、建物、道。
あらゆるものを「○○の神様」と呼んでいたり、この端末含めあらゆるいのちは神なので「○○のわたし」と呼んでいたりする。
外を歩いていて、声には出さないが、内側からこんな呼びかけが起きたりもする。
(「いろんなわたし、こんにちは」)
自宅も「家のわたし」であり、外に出なくても室内は「いろんなわたし」で溢れているが、外に出ると「初めて見るかたちのわたし」に出会うので面白い。
結局は皆「神様」でも「わたし」でもあるので、どちらでも良い。
今の今は、二種類のうち気の向いた方で、気の向いた時に「いろんな存在」達に挨拶をしている。
例えばたまに見かける、薔薇の木で囲まれた家に住んでいて、犬を連れて散歩するご婦人には、
(「薔薇屋敷の神様の犬の神様のお母さんの神様、こんにちは」)
(「薔薇のわたしや犬のわたしこんにちは。お家と犬のお母さんのわたしもこんにちは」)
と言った、ややこしくて訳の分からない呼び方をしたり、
(「お母さんの神様、こんにちは」)
とか時に応じて適当に略したりもして、その家の前を通る間に意識だけで挨拶をしている。
知り合いではないし、表札も見ていないので名前も知らない。
何でか気が向いた時、自由に挨拶をしているだけである。
(「いやぁ、いろんなわたしがいるもんだ」)
街中を歩く時も、そんな風に驚きながら愉快な気分で過ごしているが、ある時
ここに居る全ての人を
全母たる自らの
“子”として観てみる
アイディアが意識に飛来し、大切なことだと感じたので早速その様にしてみた。
どの人も皆、思い思いの方角へ歩きながら、話したり、ふざけたり、俯いたり、ぼんやりしたりしている。
その全てに対し、問答無用の愛おしさを感じた。
何をしているとかしていないとか、何を得ているとか得ていないとか、どこに所属しているとか、どんな姿かたちかとか、一切関係ない。
えらいね、が自然に湧いた。
いろんなこと、それぞれにしててえらいね。
今日ここにいて、えらいね。
存在していて、えらいね。
「えらい」は、「偉い」ではなく、並々ではないことを示す「豪い」の方。
つまり「凄い」に近い。
全母は分神達を、下に見たり軽んじたりしてはいない。
ちっちゃく分かれた自ら。
その一つ一つがする冒険を「凄い!」と感心しながら歓んでいるのだ。
“母”として“子”を観察してみて改めて分かったのが、物理次元の慢性的な“おかあさん”不足である。
全体のおかあさんとして世を観る時、観られる世界には新しいエネルギーが湧き返る。
全母性を発揮しながら同時に、一端末としての歓びも感じていると、両輪が動き、意識と行動のどちらも冴えわたる。
時たま気の向いた時、誰にも気づかれることのないおかあさん観点で、「えらいねぇ」を発している。
人知れず、おかあさん生活。
(2019/5/27)