《あるべき世界?》
覚悟を決めたつもりなのに、気がつけばまた堂々巡り。
そう感じている人の意識には、未だ「あるべき世界」の想像図が握られている。
握ったまま、頼りにする人を代えても、取り組むものを替えても、何をどう変えても、先には進まない。
「こうあって欲しい世界の思い描き位、可愛いものじゃないか。
悪さする訳ではなし、持っておいたって支障はない。」
大したことはない。目に見えないから持っていない振りも出来る。
そう高を括っているから、今日まで取っておけたとも言えるが、あるべき世界の想像図は、ちょっとしたものなどではない。
目が覚めると、「覚めるべき」とは全く思えない。
ご自由に!
覚めるのも覚めないのも、それぞれの自由意志であり、そこに優劣はない。
只、目が覚めると、
生とは何か死とは何かが自然と分かり、
何故今ここに在るのかが自然と分かり、
何故ばらばらに存在しそれぞれの体験をするのかも自然と分かり、
そしてそれが実は全く一つのものの大いなる動きなのだと言うことも自然と分かり、
静かで、安らかでありながら、同時に、ずっと点滅し流動し続けていることも自然と分かり、
この世界の不思議さに驚きつつ、あらゆるものの変化を、分かって観ている。
その様に、変わる。
これが「分かった気になる」であれば、何かの拍子にぐらついたりすることもあるのだろうが、海を刀で「ヤー」と切りつけたり、棒で叩いたりしても、加わる力を飲み込んで元通りとなり、影響がない。
そんな感じで、世に起こるどんな出来事が通過しても、覚が変わることはない。
“思えば遠くへ来たもんだ”
レールの響きに未来を夢見て、そこからはみ出るかはみ出ないかで躊躇ったり迷ったりしながら、不覚の人は生を過ごす。
そして割と遠くまで来た風に感じる。
幼い頃の希望や、若き日の苦しみ、それらが遥か遠いものに映るからである。
まぁ、そこに気分次第で「長い様であっと言う間」なんて付けたりして一体どっちなのだと言う感じもするが、そうして走り続ける間に、レールに沿って先を追う力は次第に失われる。
弱くなった力を嘆いたり、振りむく度に遠くなる故郷を想ったりしても、全体一つの感覚が分かることはない。
人生レールの走行を可能にするのは、人と言う車両とレールだけではない。
人でもレールでもない、それ以外の全て、空間がなければ成り立たない。
この、不覚にとってはおそらく「簡単そうだが何だか良く分からない」となるだろう感覚が、自然と腑に落ちていると、起きたこと、起こることをべきやべからずで仕分けすることは出来ない。
“思えば遠くへ…”と聴こえて来た歌に、「思ったりすることもないし、遠いとか近いとかも無い所へ来たんだが」とツッコんでから「あぁ」と気がついた。
永、遠く。
思っても見ない遠くへ着いた。
“この先どこまでゆくのやら”とならない、どこもそこも、ここしかないと言う理解へ。
だからユートピアは必要ないし、世に何が起ころうと「あってはならない」と嘆く気にもならない。
あるべき世界がある限り、無限の新世界は遠いままとなる。
べきが取れると、未知が開く。
(2020/9/17)