《難にも理》
先週記事にも書かせて頂いた、色の白いは七難隠す。
切りがないことだとこの諺を眺めていて、表に現れる文字の奥にある虚空の意志、つまり真理を観じてみれば、そうした七難にも一理のあることに気がついた。
一理となる場合、“色の白さ”とは皮膚の色調ではなく、内側から溢れる輝きを意味する。
人は人を見た時に「輝いている」と感じることがある。
その時に「色白だから輝いたんだな」と言う納得の仕方をするだろうか。
巡って来た役割を果たして、尚且つそれによって本人も満たされている時、人は輝く。
だからどんな時にどんな人物が輝くかは、特に決まっていない。
誰にでも起こり得るシンプルな輝きが、エゴと言うフィルターをかけると、特に優れた人物にだけ備わる力であるかの様な雰囲気にすり替わることがある。
一時期言われた「オーラが凄い」的な表現も、そのすり替わりを示す分かり易い表われの一つと言える。
一律ではなく、生来持ち合わせるものに強弱があると言う見方。
オーラと言う単語も出たてはシンプルだったものが、人間の求めに応じて箔がついた感じの使われ方をする様になった。
何でまたそんな雰囲気に変わったのか不思議だが、特別さを求めるのは不覚社会あるある。
2023になっても、世に知られた人を指してやはり別格だったと表現したい時などに、オーラが凄いとか違うとかの言い方がたまに使われているのを見かけたりする。
だが、大多数にとってオーラが何とかと言う表現は既に新鮮味を失っている。
根強いファンの間で繰り返し煮詰める様な使い方をされることはあっても、広く多用される日はもう帰って来ないんじゃないだろうか。
一旦「ダサかわいい」ものになった後に「○○レトロ」みたいな感じで旧時代の他の言葉と一緒に蒸し返されることは起きるかも知れない。
商品につく「王様の」とか「幻の」と言ったフレーズもそうだが、人間は特別感を出す聞き慣れない言葉を発明しては多用し、やがて飽きることを繰り返している。
誰にでも起こり得るシンプルな輝きは、シンプルであることと特別感がないことで、特定のイメージに落とし込まれない。
限定されないので新鮮さを失わない。
輝きは輝き。
名前の置き換わりがないことについては、水などと同じである。
「美味しい水」
「〇〇(地名)の水」
だけでなく、元気とか滋養とか美麗とかどんなフレーズが付いても、水が水であることは変わらない。
輝きも同じ。
この輝きが内から溢れると、その人だけでなく周囲まで明るく感じられる。
明るさに魅かれて近づく者も居るだろうし、明るさを疎んで離れる者も居るだろう。
だが輝いている当人にとってはそうした周囲の反応は気にならない。
もし気になって周囲を引き寄せようとでもして、明るい感じを作り出しているなら、それはアンコウの提灯の様なもの。
見分けるのは容易い。
見る側が明るさにあやかろうと言う気持ちを手離せば、感じる光が存在の輝きなのか狩猟の餌なのかは自然と明らかになる。
あやかろうとせずとも内なる輝きは、周りに居てそれを感じた者にも輝こうとする意志があれば、移り広がって行く。
その輝きは、生きている意味や理由や歓びの実感を、意識に促す。
あらゆる難と見なして来たことも実は難ではなかったと気づかせるのだ。
難も掴まねば、理の内。
(2023/6/12)