《謎めく尋常》
「いざ、尋常に勝負しろ」の「尋常」は「普通」の意味から転じて、「素直」「潔い」等の意味で使われていたものらしい。
素直。
潔い。
もしこれが人間の性質として平凡なものであれば、世間に見られる多種多様な揉め事は起きようがない。
平凡なこととしての普通ではなく、理想を含んだ「人として当然!」を言い換えた「普通さぁ」な、尋常の使われ方と言える。
本当に普通なことであれば「いざ!」まで付けてわざわざ「尋常に!」と言葉にしたりはしない。
明治期に生まれた尋常小学校にも、「素直で」「潔く」あって欲しい、それが普通になって欲しいと言う理想への期待が込められている。
尋常小学校は義務教育として家々の位や経済状況に関わらず通えるごく基本的な教育を提供する場であり、“特別に立派な小学校”ではなかった。
卒業した先に一部の人が進む高等小学校があるので、つまり尋常小学校は高等ではないと言うことになる。
それでも人として、基本的にそうあって欲しいこと。
これも又、「普通さぁ」な理想郷の一つと言える。
そこから更に「立派なこと」の意味まで付いて来た尋常。
こうなるともう、普通じゃなさ丸出しである。
何故この奇妙な転換や枝分かれを不思議に感じないのかと首を捻りつつ辞典を使って調べていたら何と、これまで見たことのない尋常の意味を発見。
それは、
華奢。
目立たないで品格が良いこと、おとなしいことの後に添えて書いてあった。
「きゃしゃ~!?」
又変なの出て来たと、華奢のことも含めているだろう使用例を見て更に驚いた。
「廿四五ばかりなる男の色白く、尋常なるが」(義経記)
義経記は室町時代に成立したと推定される軍記物語。
室町と言ったって幅があるが、現代から遡って始まりは大体600か700年前。
目立たず、品よく、大人しく、華奢。
もしかして当時はそれが普通だったのだろうか。
令和の今、その辺見回しても華奢な人がゴロゴロ居る訳でもない。面白いことである。
そんな室町普通MENがどんな役回りで軍記物語の中に登場したのかまでは分からなかったが、はっきりしたのは、
尋常の使い方にも表れている、人間の定める普通の基準は、その時々で都合よく変わる
と、言うこと。
近現代で急に意味が崩れて来た訳ではなく、多分この言葉が生まれてからずっと風見鶏の様に向きを変え、手を替え品を替え、くるくる回っている。
こんなに“潔くない”ことってあるだろうか。
普く通じると言う字をろくに見もせずに、何となく使っている普通の中身は、実質有って無い様なものなのだ。
尋とは何を測る単位だったのかを随分調べたが、結局分かったのは「左右の手を広げた長さ」のことであると言う点のみだった。
常の字の下部は布を表すので、衣服や旗など布で出来たものの一般的なサイズを表すのだろう。
手に負える範囲のモノコト、その倍位までを人は普通だとして「尋常」と呼んだのか。
尋常一様と言う言葉がある。
意味は「ふつうで、他と特別の差異のないこと。また、そのさま」。
尋常一式と言う言葉もある。
意味は「まったく平凡であるさま。尋常一様」とあった。
同じなの?
さて、ここから分かること。
尋常は、様式であると言うこと。
その様も式も、元は同じであると言うこと。
来週記事ではその元を辿ってみることにする。
元を尋ねる常世の道。
(2023/1/19)