《記録と落書》
意識と魂はどう違うのか。
魂って、何なのか。
まず初めに立ち返って、全体の流れを見てみると、
無限の、継ぎ目のない、虚空が、
有限の、別々に見える、世界を、
生み成し、
その分かれた一部に、自らを分けて入り、
観察と体験を行う。
同時に、無限の空意識としても、分割意識達を含む全体一つの世界を丸まま観察している。
つまり、記憶を失くすことなしに、記憶を失ったちいちゃな沢山の自らを観察する訳だが、これは相当面白かっただろう。
だが、そんな面白体験も「し尽くし」と言う限界を迎える。
そこで自然な流れとして、目隠しを取って全てを認めた上での新しい体験を味わう時代が訪れている。
観察は勿論、それのみでも面白い。
だが、全一を一旦忘れて分かれた分割意識達が、ああ何もかも一つだったと記憶を蘇らせるには、ヒントとなるものが必要。
だから観察には記録をセットにする。
「魂の系譜」とか「魂に刻まれる」なんて言い回しもあるが、魂は観察で分かった内容を記録する媒体にもなっている。
この記録は、それぞれの分割意識がしたものではない。
自らの様々な体験、学び、進化、強く残る癖など、それらを全て中立に記録することは不覚の分割意識には到底不可能である。
全体一つの虚空として、観察して来たデータが記されている。
「先祖からの」とか「過去世からの」と人が表現する様な記録も入っているが、そうした記録は魂の中で主となる「今において何をするか」の記録欄のオマケ、巻末についている資料である。
資料と言うのは必要に応じて使うものだ。
資料ばかりを眺めて、お気に入りのページばかり開いて、お気に入りの箇所に傍線を引いたり花丸つけたりマーカーでデコったり、そうしたことをし続けても「今において何をするか」からは遠くなるばかり。
何が何でも「武士だった」「巫女だった」等の花丸部分を使って何かしたいとか、注文付きのまま今何かを記そうとしても、そこに出来るのは本文への書き込み、落書き程度になる。
古代中国では、人間を形成する陰陽二気があって、陽気の霊は魂、陰気の霊は魄であると分けたそうだ。
訓読みでは魂と魄どちらも「たましい」。魂は精神、魄は肉体をつかさどる神霊とされている。
魂は意識の記録簿、魄は御神体の記録簿にもなっていると言うことか。
この魂魄についての説明で「何だって?」となったのが、
人が死ぬと魂の方は天上に昇って神となり、魄は地上に止まって鬼となる
と言う、全然違う進路。
しかも、「特に天寿を全うせずに横死したものの鬼は強いエネルギーをもち、人間にたたる悪鬼になるとして恐れられた」と書いてある。
この恐れから人の死後間もなくに、屋上から死者の魂を呼びもどす招魂や鎮魂の習俗儀礼などが生まれたのだそうだが、呼び戻してどうするのだろうか。
とりあえずセットにしたとして、何処に保存するのか。
食べちゃうの?
人間のこさえた「たましい処理法」には謎が多い。
只、魂だけが何をやり散らかしてもきれいさっぱり濯がれて天の上に行って神となり、散らかり後に罪や穢れと言った祝れないものと共に魄のみ地上に置き離されると言うのは、何とも不覚的。
良い悪いで見ているし、清濁で見ているし、聖俗で見ているし、天地で差を付けている。
そして、やっぱりとても恐れている。
それでも魂魄と二つに分けたことの中にも、虚空からのメッセージは織り込まれている。
魂って何なのかについては、「観察内容の記録媒体でもある」とお知らせした段階で本日は留め、続きの前に次回は、魂魄の“両たましい”についてもう少し深めて書かせて頂くことにする。
落書では富記を満たせぬ。
(2022/6/9)