《至福と酩酊》
至福についてボンヤカした、もっと言えばダラダラしたイメージを添えて、「つまんない」とするのがスリル興奮信者。
逆にそのボンヤカダラダライメージを利用して、
「のんび~り、自然体~。これが至福です~」
「静かなる…やすらぎ…只々…あるがまま…それが至福…なのです…」
等々、作り込んでみるのが酩酊興奮信者である。
ナチュラルメイクも「より自然に美しく」を目指すと、かなりの手間と時間がかかるらしい。
そうした“手入れされた自然”を理想とすれば、ノーメイクは自然ではなく野放図で野暮と言うことになるのかも知れない。
狙った状態を手間暇かけて作ることが自然かどうかはさておき、整えられた「ありのまま」からも意図は染み出て来る。
酩酊による至福的表現にも、染み出すように興奮が見え隠れする。
動きや表情の変化が小さくとも、興奮はしている。
中心の虚空から観察をすると、表層に流れる自意識の微かな鼻息も自然と分かる。
意識の内に「良い」「悪い」の基準が置かれていれば、その基準が放つ雑音に紛れて、微かな音は聴き取れなくなる。
良し悪しで傾くなら、そこは当たり前に中心ではない。
中心には善悪も、理想も、評価も、賞罰も、感想も、思考も、何もない。
微かな揺らぎも自然と分かるのは、何かに優れているとか、そう言うこととは関係がない。
何のことはない。
中に何にもない空っぽには、何の響きでも分かり易いだけだ。
そして何にも影響されない。
身も蓋もない、空だからである。
酩酊を辞書で調べてみると
「過度の飲酒や薬物の吸飲などで、
大脳が軽い麻痺を起こし、
自己抑制や判断力が低下し、
誇大妄想的気分になった状態。
酔っぱらった状態」
と書いてあるものが出て来た。
自分像の盛り上げの為に酒や薬みたいに情報や技術を取り込んで、出来上がったイメージに酔っても酩酊は起こる。
意識の酩酊により表れる変化は派手で騒々しいものから、地味で静かなものまで様々。
酒癖に色々あるのと同じ。
酩酊で至福が叶えられたら世話はないのだが、“至福のひと時”と呼んで酩酊の旨味を愉しむ者も居る。
パーティー会場を桃源郷として、
「これこそ人生の味わい。醍醐味だよ~」
となるのも自由。
だがご承知の通り、ささやかなお楽しみを酒池肉林状態まで広げてみたって至福とイコールにはならない。
興奮に材料がある様に、酩酊にも材料がある。
興奮も、酩酊も、無からは生み出せない。
至福は何の材料も必要としない。
虚空は至福のまま何もかもを、無から生み成している。
覚を一旦忘れてみると言うイベントも生み、その先に表れたちょっとした乱痴気騒ぎや居眠り運転も、愛と祝福で観察している。
酩酊で盛り上げた、覚めている風の自分像を利用する人々は、愛と祝福での観察を
「良く出来た私が出来の悪い子も大目に見る」
感じに置き換えたりする。
愛は許しとは異なる。勿論、赦しとも異なる。
判断基準と優越による許可や赦免を持ち込んで、語れる愛はない。
騙れるだけだ。
自にも他にも。
自他はないので、どちらにも分け隔てなく酩酊の術がかかる。
自分の良いに酔い、他も良かれで酔わせてみたり。
何にせよ、帰る時に明確に覚める仕組みを持った飲み会はない。
どうせかたちを解けば全体一つに還るのだからと、好きなだけ不覚酩酊パーティーを続けるのも先に書いた通り勿論自由である。
何一つ悪いことなどない。
良いことの何もないのと同じに。
そして「もっかいチャンスあるよね!」の下心に応える回答を、何処の誰も用意出来ない。
至福に二日酔いなし。
(2021/11/18)