《自分絵巻》
以前に書かせて頂いた《創作の妙》と言う記事にも、ちょろっと出て来た「自分絵巻」。
作家がキャラクターに変換してこしらえるものとは別に、これが自分と信じたキャラクターについて、書き足したり塗り重ねたり出来るイメージ記憶を使って、自分絵巻をこさえるのが好きな人々も世の中には大勢居る。
メモやファイルやノートや本にするのではなく、意識上に作り上げ、持ち運び、手入れし、補強し、好きな時に広げる。
飽かず手間暇かける姿は、まるで自分博物館の学芸員である。
彼らは所蔵する自分絵巻を開く機会があると、実に雄弁に説明を始める。
苦労絵巻を所有している人は、「どれだけ苦労して来たか」を生い立ちから解説し始め、「特に思い出深いあの苦労」「そうした苦労が今の自分に与える影響」まで、とても明確に滔々と感情豊かに、そして楽しそうに話している。
話す間、思い返す悔しさや悲しみや苦痛に表情が歪むなんてことがあったとしても、その気配、その興奮、その夢中さには、ずっと楽しさが見え隠れしている。
何の都合も挟まない観察をしていると、そうしたことも自然と分かる。
名誉絵巻を所有している人は、「どの辺りに起きたどんな名誉か」を、
盛り上がった最高潮で言いたい
ので、飽きられない様にその周辺から何となく話をし出して、見せ場を作る。
又、他の人物の絵巻を引用し、便乗披露をしたりする。
他にも「忘れられないロマンス絵巻」だとか、「夢を叶える努力絵巻」だとか、「一世一代の大勝負絵巻」だとか、「選ばれし者としての前世絵巻」だとか、そりゃ記憶の容量もいっぱいいっぱいになるだろうさと納得する種類とボリューム。
自分博物館の学芸員達は、一度ならず絵巻の内容を披露したことがある相手にでも、機会さえあればパッと開いて話し始める。
そこでは過去を消化し昇華する意志は忘れ去られ、「とにかく話を再生して味わい直したい!」と言う欲求に意識は夢中となる。
一応「これは以前にもお話しましたが…」と補足する用心深い学芸員も居るが、早くも意識は沸き立って、いそいそと絵巻を紐解き始めている。
前については、一旦なかったことにする。
なしにしたくないことを鮮やかに披露する為に。
望み好んで有り無しを取捨選択するなら、そこには当たり前に消化も昇華もないのだ。
虚空に還せば、事実はそのままでも絵巻形式の“こだわり抜いた思い出コレクション”は消えてしまう。
絵巻作りをするのも所蔵するのも披露する機会を狙い続けるのも、それはそれで全く自由であるし、悪いことなど何もない。
良いことの何もないのと同じに。
只、集めに集めても意識内自分絵巻は世に遺して行けない。
「没後100年を記念した大回顧展」等は、やり様がないのだ。
だからそれぞれ少しでも、見知った人や世間一般の人、社会等の記録や記憶に自分絵巻の跡を残そうとするのだろう。
大事な大事なお宝を手放すのは惜しいと、自分絵巻をがっちり掴んだままであれば、誰でもない者だったことを腑に落とせる訳もない。
絵巻を手放しても記憶喪失になる訳ではないので「ご苦労なさったんですよね」とか相手に話を振られた時に、「そう言えばそんなこともあったっけ」と思い出すことは出来る。
そこで「まぁ、そうですかね」程度の反応で、
今の今必要な本題についてブレずに話すことが出来たら、
その人は自分絵巻から自由になっている。
片付くと、意識スッキリ。
(2021/12/16)