《糸と米》
人類には未だ「素気」と「好き」の区別のつかないことは承知したが、それでも謎は残る。
「気は気だろうに、素の気って何で出て来たんだ?」
と問いかけて程なくして気がつき、膝を打った。
素じゃない気を、沢山作って来たからか。
人間は対比と比較を駆使して様々な動きを起こしている。
心の動きも、行動も。
何かわざわざ言っている周辺を見渡すと、そこには大抵「じゃない方」がある。
素じゃない気、を数多作り出し匂わせてあれこれやっている内に、その中で選んだ「これが素であって欲しい気」を素っ気とする。
そこには全く素がない。
何故なら「素」とは、何の色もついていない、縒り合わせてもいない、つまり手つかずの糸を示す字だからだ。
繭からそのまんま出ている状態の糸、と言う説明も素の字について調べた中にあった。
と言っても「糸」の字自体が、糸束を表す形だとされている。
束になっていると言うことは既に縒り合わされ仕上がっているのではと、おかしな感じになる。
人の作ったものには、こうした謎が山積している。
だが変てこと変てこの隙間から虚空の意志が溢れ出て、人知を超える表現が生まれている所もある。
この“宝探し”が漢字観察の面白い所だ。
変な所を発見したら即ガセネタや間違いであるとして、だから見る価値はないと片付ける人々は、おそらく百点満点のシンデレラフィット真理を探している。
それを天からか虚空からかは知らないが、見つけ出す形で与えて貰おうとする。
与えられようとしている時点で子としての視点しかないので、当たり前に叶わない。
柔軟かつ丁寧に虚空からの情報を受け取って消化と昇華をするには、我に依らない真の意味での自主性が必要となる。
真の自主性は、我に依らない状態となって発揮出来る本性である。
あらゆる都合を既に手離しているか、まだであっても手離すことを意志し、我の都合が残っているか内側を包み隠さず観察して、有ればそこを解いて中立に戻せる覚悟が要る。
素の気の「気」の方は元々、气と書いて、息や気体や水蒸気を示していたそうだ。
何もない所から生まれている。
気がついていたのに、何で又ちょこんと足したのか。
これは、気の字を元々「氣」と書いたと言うことで合点が行った。
气+米=氣
この組み合わせで、米をふかした時に出る蒸気を表すらしい。
「美味しいご飯が食べられるぞ!」の嬉しさと期待が、込められていたのか。
米を作って飯として食べるまで手間も時間もかかっていたろうから、喜びもひとしお。
湯気と違って水蒸気は目に見えない。
目に見える姿を現しては空間に溶けて消えて行く湯気の先に、目に見えない存在を感じていたのであれば中々に冴えている。
出来た当初の氣には嬉しさや期待と共に見えざるもの、水蒸気やその奥の虚空への感謝も込められていたのじゃないだろうか。
それも次第に薄れて、米飯を口にすることが人々にとって「別に普通」になったからなのか、コメはチョメで略され人のひと手間を省く形に。
無洗米やレンジでチンするご飯の様に、人は手間を省くことが好きである。
手軽にすることは良くも悪くもない。重要なのは軽くなったその手で何をするのか、そのすることに愛があるのかどうかである。
あらゆるものが無から生まれていることを認められる様になったら、常用されていない「气」の字の出番も復活するだろうか。
人が手間を省くのは楽を求めるからであって、安楽や娯楽のお得感が特にない空への帰還は人気がない。
人気がないが、真の納得はそこにしかないのだ。
素も気も、空より来たる。
(2022/10/13)